二十歳のとき、何をしていたか?/水道橋博士 人生は自分を主人公にした一冊の本。その伏線になるような出来事をたくさん経験した赤貧の修業時代。
このままじゃいけない。その気持ちを抱えて弟子志願。
「『人生に期待するな』と本書に書かれた最後の1行を読み終えると、俺は、まるで天からの啓示のように、この人の下に行こうと決心した」 【取材メモ】水道橋博士と命名されてから2年目の26歳のとき、博士はその名前の変更をたけしさんに直訴したという。 自著『本業』において、ビートたけしさんの自伝的エッセイ『たけし! オレの毒ガス半生記』読了時の衝撃をそう振り返るのは、水道橋博士だ。博士がその名を授かる5年前、19歳のときの話である。 「当時の俺はすごく正義漢だったんですよ。いじめとかも大っ嫌いだったし。だから、社会の不正をただすルポライターになりたかったんです。でも同時に、自分には最後まで正義を貫けない弱さがある、要は臆病者なんじゃないかという気もしていて。思春期はそういう自問自答をずっと続けて、それで引きこもりになった時期もありました。そんなときに出会ったのが、たけしさん。たけしさんは『全然ウケないな』とか『30年も売れてない芸人がいるんだよ』みたいな話で人を笑わせるわけですよ。つまり、芸人っていうのは売れなくても、ウケなくても、最終的にそのことで笑ってもらえる。これは出口しかないし、負けがない。そう思ったとき、『この人のところに行けば人生が開けるんだ』と思ったんです」 この〝啓示〟に背中を押され、それまでまったく手を付けてなかった受験勉強も開始した。晴れてたけしさんの出身校である明治大学に受かり、地元の岡山から上京したのは二十歳になる年。しかし、付属校上がりの東京の生徒と大喧嘩をして、大学へは4日しか行ってない。その後、しばらくはパチンコや麻雀に明け暮れるならず者のような暮らしだったそうだが、たけしさんのところへ行くという当初の目標はどうなったのか。 「実は上京してすぐ、弟子入り志願をするために、たけし軍団が草野球をしている多摩川グラウンドまで行っているんですよ。でも、そこにヘルズ・エンジェルスみたいな風貌の志願者がいて、『これは勝てないな』と思って断念しちゃったんです。その人は、のちのグレート義太夫さんだったんですけど」 「飛び出したいけど、飛び出せない、〝ごきぶりホイホイ〟の中にいるような気分だった」。この数年間のことを博士はそう振り返る。ようやく一念発起できたのは、23歳のときだった。 「このままじゃいけない、何のために東京へ来たんだって思ったんですよね。それで毎週木曜日、『オールナイトニッポン』終わりのたけしさんをニッポン放送の前で出待ちして、弟子入り志願するということを始めました。その中には、玉袋(筋太郎)もいました。まぁ、彼は同級生2人と既にコンビを組んでいて、たけしさんのラジオに素人として出演することもあったから、〝ドラフト1位の人〟として接していましたが。ただ、当時のたけし軍団は志願者が多すぎて、もう取らないと言っていたんですよ。門が開かれるのは翌年4月です。『痛快なりゆき番組 風雲! たけし城』の放送スタートに際し、城を守る兵隊役が必要だということで、その日に来ていた弟子志願者が全員採用されて。ようやくたけし軍団に潜り込むことに成功したんです。俺の人生で一番嬉しい瞬間でしたね。だから、あとはある意味で〝余生〟を生きているような気持ちがあります」 かくして幕を開けたのは、〝余生〟にしてはハードすぎる日々だ。『たけし城』では、本人いわく〝お笑いモルモット〟として数々のゲームで体を張らされた。水道橋博士という名前が付いたのも、同番組のゲームに参加していたときだったそう。 「ゲームの中で走っていたら、たけしさんが『出ました、水道橋博士』って言っていて、『あ、俺は水道橋博士なんだ』と知ったんです(笑)」