二十歳のとき、何をしていたか?/水道橋博士 人生は自分を主人公にした一冊の本。その伏線になるような出来事をたくさん経験した赤貧の修業時代。
フランス座修業でついた芸人としてのいい匂い。
「フランス座に行く奴いないか?」。収録終わりの控室でたけしさんが弟子たちに聞いたのは、そんなある日のこと。フランス座とは、たけしさん率いるツービートが売れる前に修業を積んだストリップ小屋だ。かねてよりフランス座に憧れがあった博士は、既に漫才コンビを組もうと心に決めていた玉袋さんと一緒に速攻で挙手する。と、つられるようにその場の全員が手を挙げたというから、まるでダチョウ倶楽部のお家芸のよう。結果として、新人5人が「浅草キッドブラザーズ」という名のもとにフランス座に送り込まれることになった。 「軍団には16人もいたから、俺たちの出る幕なんてないわけですよ。そのおこぼれに与るような生き方をしないためには、芸を身につけるしかない。フランス座に行きたかったのは、そういう気持ちもありました。ただ、壮絶な貧乏を味わいましたけど。なんせ舞台に立ちながら劇場の雑用もし、それが終わったら系列のスナックで働かされて、それで1日1000円しかもらえませんでしたから。でも、それは望んでいたことでもあるんです。そういうことこそしたかった。たけしさんも『フランス座にいると、芸人としていい匂いがつくからいいよ』と言われていましたけど、ものすごい貧乏になったり、踊り子さんと恋愛したりという経験をひと通りしたことは、今の浅草キッドに確実に影響を与えているとは思いますね」 しかし、2年の予定だったフランス座での修業は、経営方針の変更により7か月で終止符が打たれる。それからは玉袋さんと浅草キッドとして活動しつつ、軍団全員の身の回りのサポートをしたり、ダンカンさん専属の付き人をしたり忙しく過ごした。ダンカンさんが放送作家をしていたため、博士も作家見習いを始め収入も得たが、玉袋さんに「漫才はどうするの?」と詰め寄られたことで方針転換。ダンカンさんに直訴して作家から足を洗い、漫才に専念することに。 「そのとき目標にしていたのが、たけしさんがツービートとして売れるきっかけになった2時間の漫才をライブですること。実現したのは、翌年ですかね。事前に各種新聞やテレビ局に『ビートたけしの漫才弟子第1号がライブを行います』とFAXを送り、結果として翌日の新聞で大きく取り上げられることになったんですよ。自分がお笑いの素材として優れているとは思わないけど、こういう自己プロデュース能力みたいなものはあると思っていて、それを証明できたなと」 「ただ」と博士は言葉を継ぐ。「これだけ成功しても、軍団に戻ればまた殴られるんですけど(笑)」と。 「結局、人生って風景が一変するかもってことを成し遂げられたと思ったら、また振り出しに戻るってことの繰り返しで、それはこの後も何度も経験しています。ただ、それも含めて俺は人生の伏線だと思っているんですよ。人生は自分を主人公にして書かれた本で、人生100年時代だとしたら前半の50年に張られた伏線が、50歳以降に回収されていく。だから、今は伏線を回収している最中なんです」