《生前の写真を独占入手》戦友が明かす ロシア軍の義勇兵となった日本の若者がなぜ戦地で散ったのか
「彼は昨年10月頃、単身ロシアに乗り込んできました。自分で戦地を調べて、外国人義勇兵が集まるピャトナシュカ旅団への所属を志願する英語の文書をアポなしで持ってきた。彼なりに、ロシアの軍事侵攻の原因となったマイダン革命など歴史を調べたようで、『ウクライナが正義だと言われるけど、自分はロシアに理があると思う』と言っていました」 【閲覧注意】「本当に死ぬぞ!」……手榴弾の破片が頬に刺さり流血「生々しい傷跡」戦慄写真 侵攻開始から2年半となるロシアとウクライナの戦闘で、日本人義勇兵が戦死していたと7月23日に林芳正官房長官が公表した。ウクライナ東部・ドネツク州で亡くなったのは、29歳の元自衛官の男性。なぜ彼はロシア軍に入り、どのような最期を迎えたのか。 ロシア国防省の特殊部隊で狙撃兵として戦闘に参加する金子大作氏が、謎に包まれた戦友の死について口を開いた。 「彼は大阪市内で一人暮らしをしていて、信太山(しのだやま)(和泉市)の陸自の駐屯地に4年間いたそうです。階級は曹だったと聞いています。本人は元自衛官で父親は大阪府の公務員だというから、何かあれば国際問題になる可能性を孕んでいた。私は『帰国したら、戦闘に参加したとは言わずに従軍記者をやっていたと言った方が良い』とアドバイスしましたが、本人は気にする素ぶりはなかったです」 ピャトナシュカ旅団に入隊した日本人義勇兵は、突撃部隊に編入された。銃を持って徒歩で敵地に突っ込む突撃兵のスタイルは彼の好みだったというが、なかなか戦闘には参加できずにいたという。 「司令官が″まだ実戦には出せない″と判断したようです。私が知る限り、今年2月にウクライナの防衛最前線だった東部ドネツク州のアウディーイウカの街が陥落するまで一度も出撃していなかった。自分が実戦で頼りにされていない現実に、彼はすごく悩みを抱えていた」 陥落から約2ヵ月後の4月、ロシア南西部のタンボフにある軍の登録事務所に男性の姿はあった。そこで新たな部隊に入り、約100人の兵士を動員する作戦への参加を命じられたのだ。しかし――。 「5月28日の深夜から29日の早朝にかけて行われたウクライナ東部への突撃作戦の際に、彼はウクライナ軍の迫撃砲を受けて亡くなった、と一緒に出撃した元ピャトナシュカ旅団のメンバーから連絡がありました。戦地に出た初日か2日目だったそうです。敵から迫撃砲が放たれると『危ない』や『伏せろ』と指示されるのですが、彼はロシア語が堪能ではないから避けられなかったのかもしれません」 その一方で亡くなった日本人義勇兵に対し、ロシア政府は異例の対応をとった。 「民兵が死亡した場合、普通なら戦地で埋められて終わりです。ただ、今回は国家間のパイプが途絶えているなか、遺体をモスクワに搬送して父親の確認後に日本へ搬送する手続きをとったんです。ロシアの法律では遺体を日本に運ぶことはできないのですが……。しかも、残された遺族に対してロシア側は弔慰金の支払いを約束しています」 終わりが見えないドロ沼の戦争に、若者の尊い命がまた一つ奪われてしまった。 『FRIDAY』2024年8月16日号より 取材・文:加藤 慶(ノンフィクションライター)
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