【大河ドラマ「べらぼう」】蔦屋重三郎がいなければいまの浮世絵はなかった! 江戸の美術と文化の革新者“蔦重”とは
財産が没収! 危機を救ったのは
しかし寛政の改革のもと質素倹約が奨励され、娯楽を含む風紀取締りが厳しくなるなか、幕府は寛政2年(1790)に問屋や版元に対して出版取締り命令を下す。これにより出版物の表現内容や華美な着色、装飾への規制が強まった。負けじと反発する重三郎だったが、浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとう・きょうでん)による黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減、すなわち財産の半分が没収されるという罰金刑を受ける。商売は大幅な縮小を余儀なくされた。 しかし、転んでもただでは起きないのが重三郎という人物。路線転換を迫られたことを契機に売り出したのが、歌麿の「美人画大首絵」だった。大首絵とは人物の上半身をクローズアップで描いたもの。 歌麿が寛政2年(1790)頃から始めた《寛政三美人(かんせいさんびじん)》などの美人大首絵は、当時の浮世絵としては異例の写実性を持って描かれ、それまでの固定化した美人画の形式を打ち破るインパクトがあった。 《ビードロを吹く娘(ポッピンを吹く女)》は、舶来品であるビードロをモチーフに登場させ、女性が頬をわずかに膨らませて吹く様子を生き生きと描いている。たんなる理想化ではなく、人物の特徴や感情を表現した歌麿の美人画は一世を風靡。これらの刊行により重三郎は再び江戸出版界をリードする存在となった。
謎の絵師、東洲斎写楽を激推し
浮世絵と聞いて、東洲斎写楽による大首絵を思い浮かべる人は多いだろう。しかし写楽の活動期間はわずか10ヶ月ほど、出自も経歴も決定的な事実が不明の謎めいた人物だ。 140点以上の作品を残したこの10ヶ月を伴走したのが、やはり重三郎だった。写楽のデビュー作は寛政6年(1794)に発表された歌舞伎役者の大首絵のシリーズ。役者大首絵を28枚も同時に出すというだけでなく、普通は新人の作品に使われることのない豪華な黒雲母摺(くろきらずり)の技法を用いており、異例中の異例といえる扱い。この鮮烈な売り出し方に、プロデューサー重三郎の意気込みがうかがえる。 役者の目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張し、役柄の憎々しさまでとらえたこれらの作品は、江戸の人々に驚きを持って受け止められた。実際には美化を退ける型破りな描写が不評を買い、商業的な成功を掴むことができなかった。このときの評価の低さが、写楽の活動期間の短さや絵師としての情報の少なさにも影響しているだろう。 写楽作品のすべてを出版した重三郎のプロデュースは失敗だったかもしれない。しかし、その審美眼に世界が追いつくのがずっと遅かったとも言えるだろう。浮世絵の新たな表現を切り開いた写楽は100年以上の時を経て国内外での評価が急上昇。いまでは「浮世絵」を代表するイメージとなり、日本の美術史に刻まれている。 写楽の登場から3年後の寛政9年(1797)、蔦屋重三郎は48歳でその生涯を閉じる。江戸病と呼ばれた脚気が原因だったと伝えられている。 新しい価値を生み出すクリエイティブな仕事を、多角的な事業展開を通して成し遂げた蔦屋重三郎。日本文化全体に深い影響を与えたその足跡はいまなお眩しい。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、どのように肉付けがされて、現代にその姿を表すのだろうか。
福島夏子(編集部)