高校野球と夏の甲子園大会の衝撃的な始まりとは? 害悪キャンペーンを乗り越えて大正デモクラシーの波が後押しに!
今や全国の高校球児たちが目指す大舞台となった夏の甲子園大会。正式名称を「全国高等学校野球選手権大会」というこの大会は、100年以上の歴史をもっている。しかし、その始まりは「海外発祥の野球など害悪である」という反対勢力とのぶつかり合いという波乱に満ちたものだったということをご存知だろうか?本連載では、日本の高校野球と甲子園大会の即席を辿っていく。 ■大正時代に花開いたスポーツ文化と“嫌われ競技”だった野球 今年も夏の甲子園大会に向けて、地区予選がスタートしている。この大会は大正4年(1915年)に、当時の学制により「全国中等学校優勝野球大会」として始まった。今年で106回目である。長い歴史を持ち、大正時代の米騒動、昭和の太平洋戦争末期、それに令和のコロナ禍に中止した以外、延々と続いてきた夏の風物詩である。 甲子園大会のみならず、高校サッカーや天皇杯、箱根駅伝など多くの大会が大正時代に始まっており、それぞれ1世紀の歴史を持っている。日本近代史において、大正時代は画期となる時代だった。 明治の半ば以降、日本は世界史でも有数な幸運に恵まれて、当時の大国を相手に二つの大戦争(日清戦争、日露戦争)に勝利した。さらに欧州で第一次大戦が勃発。それが長引いたため軍需品の発注が殺到し、日本は漁夫の利を得ることになった。 大戦景気を背景に財閥も確乎たる地位を築き、大衆消費社会が到来する。サラリーマンが登場し、中間層が拡大して都市文化の花が咲いたのである。サラリーマンの登場は、主婦という新しい階層も誕生させた。 甲子園大会は、そのような中間層の拡大と都市文化を追い風に誕生し、人気を博した。しかし、意外なことに明治の末頃、野球は逆風にさらされていたのである。舶来スポーツである野球は、主に武道を奨励する文化人や知識人から嫌われていた。 明治44年(1911年)の8月には、東京朝日新聞が大々的な野球害毒キャンペーンを張っている。すでに人気を博していた大学野球が興行的にも成功し、収益を上げていることも問題視された。 そのキャンペーンでは、5千円札にもなった第一高等学校校長の新渡戸稲造や、日清戦争における旅順要塞攻略時の司令官で、学習院院長になっていた乃木希典などが野球を強く批判していた。 当然、野球関係者は反発する。他の新聞紙上に反論を書くのみならず、神田の日本青年館で「野球問題大演説会」を催した。早大教授の安倍磯雄、慶応の大隈重信ら大物が登壇する上、無料だったから人気は上々。入りきれない聴衆がガラス窓から中をのぞき込む盛況ぶりだった。 それでも東京朝日新聞はキャンペーンをやめず、擁護者たちはさらに反論、東京朝日新聞の不買運動を宣言するといった応酬が続いた。今の日本ではとうてい望めない白熱した言論戦で、時代の熱気が伝わってくるようだ。 ところが、この大論戦が収まってからたった4年後に、大阪朝日新聞が高らかに「全国中等学校優勝野球大会」の開催を告知したのである。「野球技の一度わが国に来たりて未だ幾何(いくばく)ならざるに、今日のごとき隆盛を見るに至れるは、同技の男性的にしてその興味とその技術とが著しく我が国民性と一致せるによるものなるべし」(大正4年/1915年7月15日) 今から見ると、武道に並ぶ新しい国民スポーツとして野球を位置づけたところに、大阪朝日新聞の先見性があった。もともと東京朝日新聞とは一線を画していた大阪朝日新聞は、全国中等学校優勝野球大会の開催で、支持も収益も得られると見込んだのである。 何より時代が野球に味方した。後押ししたのは大正デモクラシーである。労働運動や護憲運動などは、中間層の拡大や都市文化、娯楽やメディアの急速な発達なくては成立しなかった。生活文化向上への意欲こそ、大正デモクラシーの原動力だったのだ。 もはや社会は知識人や文化人の独壇場ではなく、憩いや豊かな生活を求める大衆が主役になりつつあった。こうして甲子園大会は、生活の向上を求める大正デモクラシーを背景にして、その歴史的な第一歩を踏み出したのである。
川西玲子