年の始めの例(ためし)とて
2025年。新しい年がやってきた。そうは言っても何がどうなるわけでもない。そんなことは分かっていても、なんとなく気を引き締め、この先の1年間、いや、もう少し先までに思いを馳せ、あれこれと考える。 ■ 鉛筆と紙とデジタルと 紙の年賀状を出したのは2007年が最後だった。この年に父が逝き、それを口実に喪中の挨拶も出さず、年賀状を出さなくなった。すでにそれから18年が経ったが、それでも元旦の郵便受けには毎年数十通の年賀状が届く。DMが半分近くを占めているが、丁寧に自筆の挨拶を添えていただく賀状もある。それにお返事も書かず、失礼をし続けている。 かつては毎年500通ほど出していた紙の年賀状を出さなくなったからと言って、それをメールで代替するなどのDXをしたわけでもない。単に出すのをやめただけだ。 携帯メールが全盛期の頃は、元旦零時の「あけおめメール」や「あけおめコール」の自粛などが求められるなど、今では考えられないほどの呼びかけもあったのだが、そもそも今では携帯メールや音声通話などが使われることは少なくなり、SNSのメッセージングやビデオ/音声通話が使われるようになった。 そして、それを支えるインフラとしてのモバイルネットワークも、当時と比べて飛躍的に広い帯域を確保して、リッチなコンテンツのやり取りに貢献するようになっている。コミュニケーションのための帯域が心配なのはコミケの会場くらいかと思うと実に平和だと思う。もちろん、災害下ネットワークについては引き続いての早期復旧手段確立が求められる。 変わったことと言えばそのくらいで、昨年来のAI騒ぎが絶賛継続中といったことくらいしか身の回りのデジタル環境に変化はなく、相変わらずのデスクトップが、数台のPCで稼働している。 個々のPC環境はできるだけ相似になるようにクラウド連携等を工夫しているので、どのPCに向かってもほぼ同じことができる。モニターサイズが異なるので、デスクトップの広さは違うが、それはそれでモバイルディスプレイなどを併用して補えばなんとかなる。 昨年末は、暮れも押し迫ってから高熱が出て、近所のクリニックで見てもらったらA型インフルエンザが判明し、念のために5日間の活動自粛が求められた。かろうじて病院が年末年始の休診状態に入る前だったので助かった。多少はつらかったが、感染防止のために寝室を1人で独占して、師走をゆっくり過ごすことができた。 寝室には、数台のPCとスマホ、タブレット、外付けキーボードとマウス等を持ち込んだ。4K解像度の大型TVがあるのでモバイルモニターはなしだ。そこに持ち込んだノートの1台をHDMIケーブルで接続した。 多少の原稿を書く仕事もあったが、これはベッドの端っこに座り、ノートPCをつないだTVに至近距離で向かい外付けキーボードを叩いた。キーボードはありあわせのスツールの上に載せてはみたものの、位置が低すぎるので、スツールの上に段ボール箱を置き、その上にキーボードを置いてしのいだ。 原稿書き以外は、ほとんどキーボードを叩く必要がないので、寝っ転がって配信三昧を楽しむつもりだったのだが、ベッドに寝っ転がったままでのコンテンツ鑑賞は結構大変だということに気がついた。 ベッドのヘッドボードにクッションを置いてもたれかかり、足を伸ばしてTV鑑賞というのも姿勢的にそんなにラクじゃない。プロジェクタで天井に映して仰向けに寝転がって見るのがラクチンそうだが、それでは飲み物を飲んだりするのにやっかいだ。 ■ まずはAI利用のインフラから 静養環境のデジタルインフラ整備は、いろいろ試してはみたものもの最適解は見つからなかった。何にしても、ちゃんとしたデスク等がないこうした環境では、キーボードが使える軽量モバイルノートPCが絶対的に便利で、それは軽ければ軽いほうがいいということを痛感した。 やっぱりスマホじゃまどろっこしいのだ。スマホで書くにはためらわれるちょっと長めのメール返信もする必要がある。きっとさらに年老いていけば余計にそう思うだろう。片手でラクに取り回せるPCの存在は心強い。 だから富士通(FCCL)の軽量ノート634gのLIFEBOOK UHシリーズ(ムサシ)のような製品はこれからも進化を続けてほしいと切に思う。だが、若い世代はそういうことを思わないのかもしれない。スマホがあればそれで十分だと考える。それはそれでありだ。 これからの課題はPCの使い道をもっと頭を使って考えることだ。おそらくそれはAIの使い方に直結する。PC的なデバイスを使ってAIをどうやって使うか。それは本当にPCでいいのか。AIとは音声で対話するのか、文字で対話するのか、それとも図形や写真を使うのか。 饒舌な対話を求める限り、こちらもAIと会話する術を研ぎ澄まさなければなるまい。テレパシーはまだ先の話だろう。 果たしてその手段は音声なのか、文字なのか。分かっているのは、文字は丸一日タイプし続けても大きな負担ではないが、それにはキーボードやフリック等のタッチ操作で使えるパネルが物理的に必要だ。その点音声なら目立たないところにマイクがあればそれでいいが、他人がいるところで音声を使うのはためらわれるし、丸一日喋り続けるのははっきり言って疲れる。 なので、コンピュータ、あるいは、AIとの対話については、今後まだまだ研究開発の余地があるだろう。その開発を続けつつ、大規模言語モデルとしてのAI、エージェントとしてのAI、そして自分の個人情報を安心安全に把握してくれるAIをシームレスに使えるデバイスが必要だ。それはきっとスマホになるんだろうと大多数の人々は考えているに違いないが、まだまだ確定したわけじゃない。 ■ 捨てないこと、遺すこと 今年は昭和100年にあたるそうだ。つまり、1926年が昭和元年で、その年の12月25日~大晦日の6日間を元年として年が改まり昭和2年となった。 この100年間で起こったことのなんと多いことか。元号は平成を経て令和となったが、昭和生まれの自分でさえ、印鑑といっしょに公文書での元号利用は廃止してほしいと思ったりもする。 昨年は母を送った。今、遺った実家の整理をするために、東京と福井・小浜を頻繁に往復している。北陸新幹線をフル活用だ。 今は残された身として、祖父母の代、両親の代と続いてきた家系の後始末を考える日々だ。遺品の整理をしながら、捨てなかったことのわずらわしさを痛感しつつも、祖父が遺した家のおびただしい几帳面な記録に驚く。自分はもちろん、孫まで含めた家族全員の系譜が事細かに自筆で記載された帳面を見つけたときには驚いた。 昔の人はこういうことをしていたんだと思うと、デジタルを手にした自分が何もできていないことに反省しきりだ。せめてこれらの記録は個人情報としてAIに学習させておこうとも思う。人間は忘れてもAIは忘れない。それが何の役に立つのかどうかは別として……。 とまあ、今年はそういうことを視野に入れて101年目の昭和を生きていこうと思っている。どうか、この先も、この連載をご愛読いただけますように。
PC Watch,山田 祥平