「めぐみが北朝鮮にいる」疑惑が“確信”に変わるまで…メディアへの“実名”掲載を決めた父・滋さんの覚悟
中学1年生で行方不明となり、後に北朝鮮に拉致されたことがわかった横田めぐみさんは、2024年10月に60歳の誕生日を迎えた。 【動画】2002年10月15日を覚えていますか? 北朝鮮が日本人の拉致を認め謝罪してから、すでに22年が経過。政府はすべての拉致被害者について〈必ず取り戻す〉としているが、めぐみさんをはじめとする被害者12名(※)は、いまだ帰国を果たせていない。 本連載では、毎年12月10日から行われている「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」を機に、拉致被害者の家族の思いに触れ、拉致問題の現状を改めて考える。最終回は、「めぐみさんは北朝鮮にいる」とご家族が確信するまでの出来事を、めぐみさんの母・早紀江さんが、父・滋さんのメモをもとに回想する。(全6回) ※ 日本政府が北朝鮮による拉致を認定した人のうち安否がわからない人数。拉致された可能性を排除できない行方不明者は12名以外にも存在している。 ※ この記事は横田めぐみさんの母・早紀江さんが綴った『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社文庫、2011年)より一部抜粋・構成。
北朝鮮にいる知らせは「青天の霹靂」だった
私は、めぐみがいなくなった昭和52(1977)年11月15日と、平成9(1997)年1月21日という日にちを忘れることはできません。その日から私たち家族の生活は一変しました。 とくに、めぐみが北朝鮮にいるという知らせは、まさに「青天の霹靂」でした。私たちにとって、それは決して大袈裟な比喩でもなく、陳腐な比喩でもありませんでした。 私たちはその日から、突然の嵐の中に巻き込まれたかのようでした。 20年のあいだ、めぐみの行方を知る手がかりは一切なかったのですから、現実に私たち家族が生きていくためには、悲しいけれども、あとは神さまに委ねるしかない、あとは祈っていくしかないと、私は思うようになっていました。下の子どもたちを一所懸命育てていかなければならない、家族の一人でも病気にならないようにしなければ、という現実的な思いで、一日一日、忍耐してきました。ようやく堪え性みたいなものができた、というときに、大変な情報が入ってきたわけです。 そういう嵐の渦中にあった主人や私は、その時点では、続けて起きた一つ一つのことにどういう意味があるのか分かりませんでした。几帳面な主人がそのときにつけていたメモと、あとで知ったことを混じえて、めぐみが北朝鮮にいると、私たちが確信するまでの出来事を日を追って書いてみます。