横尾忠則さんら芸術家の情熱、世界を魅了 新時代のアートは「驚きの経験」提供できるか 万博未来考 第4部(1)
世界中の「文化」が集う万国博覧会。1970年大阪万博は、前衛芸術家らが創造のエネルギーをぶつけるひのき舞台となった。新たな舞台で、世界を魅了するメッセージは発信されるのか。 1970(昭和45)年3月15日に大阪万博が開幕する少し前。大阪市北区の東洋紡績(現東洋紡)本社で、若きグラフィックデザイナー、横尾忠則さんがある人物と対峙(たいじ)していた。同社の谷口豊三郎会長。繊維業界を代表し、米国との貿易摩擦交渉に奔走していた。 ■建築物を「凍結」 横尾さんが切り出す。 「『せんい館』を建設中のまま『凍結』させたい。それによって、建築物が本来持つ運命が完結するんです」 繊維業界が大阪府吹田市の万博会場に出すパビリオン「せんい館」の建築デザインを手がけていた横尾さん。赤いドームに足場を残し、作業員の人形を置きたい-。訴えたのは、完成が近づいていた「せんい館」のデザイン変更だった。 「運命って何ですか」 谷口会長の問いに横尾さんが答えた。 「出来上がった建築物は人間が入ったときから日に日に破壊の一途をたどる。それが建築物の運命だと思います」 そうした「時間の経過」を建設中の姿を残すことで表現する。破壊に向かう運命を、毎日死に向かっている人間の生き方と一体化させたい。 黙って聞いていた谷口会長が口を開いた。「難しすぎて分かりません」 ダメだ…。横尾さんが諦めかけたそのとき、谷口会長が言った。 「企業家は若い人たちの情熱をサポートし、社会に還元させる使命を帯びています」。そして近くにいた「せんい館」のプロデューサーに声をかけた。「希望通り実現してあげなさい」 ■「未完成の美」訴え 後に「未完成の美」の素晴らしさを世界に訴える「せんい館」が誕生した瞬間だった。 直前に建設現場を視察したとき、「足場が組まれて作業員がトンカチやっている姿を『なんて素晴らしい情景だ』と思った」と横尾さん。会議でデザイン変更を提案し猛反対を受けたが、「一番偉い人に会わせてください」と食い下がり、実現させたのがこの日の直談判だ。 今や日本を代表する巨匠となった横尾さん。当時のデザイン変更を「奇跡だった」と振り返る。横尾さんの情熱と、何が何でもつくりたいという信念の勝利だった。