人気絶頂でテレビから消えた「松本ハウス」――心の病を経て支え合う芸人コンビの現在地 #病とともに #ザ・ノンフィクション #ydocs
松本キックという生き方
松本ハウスの取材は3年の月日を要した。 コロナ禍で思うように取材が進められなかったという事情もあるが、「なぜ松本キックは芸人を辞めないのか」という私の疑問の答えとなるシーンが撮れなかったからだ。 少しでも彼のことを知ろうと自宅を訪ねると、見せてくれたのは大量の演劇のチラシや新聞の切り抜きなど彼の芸人としての足跡だった。 『ボキャブラ天国』で人気絶頂の頃は、スポーツ紙に大きく扱われていたが、加賀谷が入院して以降は、アングラな活動の資料が多く、ピン芸人としての生き方を模索していたのがよく分かった。 しかし、それを語るキックは楽しそうで、彼にとっては決して暗黒時代ではなく、“人生の肥やし”くらいに考えているようだった。 本棚に目をやると並んでいたのは「統合失調症」関連の本の数々。キックなりに相方の病気を理解しようと勉強したらしい。 「本は参考にはするけど信用はしない。人それぞれ違うから。加賀谷のいいところを伸ばして自信に変えていきたい」 キックも統合失調症に正面から向き合ってきたのだ。 そして、加賀谷を待つでもなく、忘れるでもなく、がむしゃらに突っ走った鳴かず飛ばずのピン芸人活動が10年たった頃、加賀谷から突然電話がかかってきた。 「本当にすみませんでした」 加賀谷は緊張した声でそう言った途端、「わーん」と泣き出した。 「芸人としてキックと復帰したい」と伝えるためにかけた電話だったが、肝心なことを話す前に感極まって泣いてしまったのだ。うれしくもあり、不安もあったが、キックは加賀谷を受け入れ、コンビは復活することになった。2009年のことだった。
ハウス加賀谷という生き方
ハウス加賀谷(現在50歳)は人気絶頂の1999年に精神病院に入院した。 7カ月で退院はしたが社会復帰は難しく、お笑いの世界に戻る決意ができるまでに10年が必要だった。 現在も、その病院に月1回通院して経過を観察している。大量の薬の扱いも慣れたものだ。 病気の影響で、ペットボトルを持つ手が震えたり、顎を自由に動かしづらいため不自然な食べ方になったりすることもあるが、一番困るのはお笑いに支障が出ることだった。 ある日のライブでは、ステージに立つ加賀谷は明らかに具合が悪そうだった。まるで激しいスポーツの最中のような大量な汗をかいていることが、客席からでもはっきりと見て取れた。立っているのもつらくなったのか、加賀谷は舞台袖からパイプ椅子を持ってきて、座りながら漫才を続けた。 芸人として一番致命的だったのは、記憶力の低下でネタを覚えられないことだ。 キックが作ったネタを覚えられなくて舞台上で、ただ戸惑ってしまうこともあった。しかも加賀谷の場合は、それだけでは済まなかった。必要以上にキックに申し訳なく思ってしまい、自分の不甲斐なさを責め始める悪循環にハマってしまうのだ。 そこでキックがたどり着いた答えは「ネタをやめて全てアドリブにする」ことだった。 今のスタイル、「即興漫才」の誕生である。