【古代史ミステリー】なぜ平安京は「右京だけ」荒廃したのか? 鴨川のひどい大氾濫
桓武天皇によって造営された平安京。朱雀大路より左手は「左京」、右手は「右京」と呼ばれたが、左京には人が集まり活況であった一方で、右京は荒廃していた。なぜ、差が生まれてしまったのだろうか? ■遷都の2年後に鴨川が大氾濫 現実の平安京は、東西南北に均等に発達した長安のような都市ではなかったとお話したが、その理由の一つが、京都の土地の高低差である。内裏の中心にあった紫宸殿(天皇の御座所)から南向きに見た時、右が右京、左が左京なのだが、左京・右京には約40メートルもの高低差があった。 「平和で安全な都になるように」との願いが込められ、造営された平安京だが、延暦13年(794年)の遷都から早くも2年後、鴨川が大氾濫し、低地の右京は洪水被害を受けた。 この手の被害が続いたので、当時の言葉で「京戸」と呼ばれた庶民たちは音を上げ、地盤が安定せず、湿度の高い低湿地の右京に住まうことを貴族たちも嫌がったので、右京だけが明らかに廃れはじめ、10世紀ごろにはほとんど人も住まぬ土地になってしまったという。 平安京について「左京を洛陽、右京を長安」に喩えたと説明されることもあるが、これは鴨川の治水工事がある程度成功した鎌倉時代以降の呼び方にすぎない。この世の権力を極めても、どうにもならないものの一つとして、平安時代後期でも白河上皇が嘆いたとされるのが鴨川の脅威だったのだ。 ■右京が使えないので、北へ拡張 しかし、平安京の人口は増え続け、一説に15万人にも達したという。右京が実質的には使えない土地だったので、平安時代中期にあたる斉衡年間(9世紀半ば)以降、北に向かって都の拡張工事が行われることになり、かつて都の大通りの北限だった一条大路が北へ移動。 いわば「新」一条大路を挟んで左右に開発された土地を「北辺坊」と呼び、神社仏閣が作られ、光源氏のモデルともいわれる源融や、皇族以外の身分出身者でありながら日本史初の摂政となった藤原良房など、大貴族の新邸も営まれることになった。 平安京でも、かつての都のように、位階を基準に宅地面積が決められたと考えられる。「京戸」こと庶民にも30㎡程度の土地が与えられ、庭には野菜などを植え、自給自足していたらしい。役人や貴族の邸宅もあったが、平安京造営開始当初は、大貴族の邸宅でも一町(120m四方の敷地)以上の広さは禁止されていた。 しかし、平安時代中期以降、二町以上の敷地を持つ屋敷が出現しはじめ、堀川に面した地域には、現代風にいえば約4300坪~約19000坪もの敷地に、舟遊びもできるほどの巨大な池を備えた、いわゆる寝殿造りの大邸宅が立ち並ぶようになる。 平安京の変化といえば、先述の通り、都の南部に位置する東寺・西寺周辺の市でしか商業が認められず、専売品まで制定されていたが、次第に行商人が京内を行き来しはじめ、平安京内の随所に商店が見られるようになった。現在の京都を代表する商店街・錦小路も、平安時代中期ごろ、具足小路の呼び名を改称したものだという。 画像:白河院御影(国立国会図書館デジタルコレクション)/編集部にてトリミング
堀江宏樹