なぜ?40年東大合格者NO.1の開成を蹴って「都立日比谷」に進む生徒が増えている…中学受験激化による地殻変動
「東大に最も合格者を輩出する高校は」―。その問いの答えは、70代以上であれば「日比谷高校」、50代以下であれば「開成高校」のイメージが強いかもしれない。そんな日比谷高校と開成高校を中心とした都立高校と私立高校の歴史を、新進気鋭の学歴研究家・じゅそうけん氏が解説する。全4回中の1回目。 ※本記事はじゅそうけん著「受験天才列伝――日本の受験はどこから来てどこへ行くのか」(星海社新書)から抜粋、再構成しています。
戦前、戦後と天下を取った日比谷高
「一中→一高→帝大」というのは、戦前のエリートコースの代名詞でした。帝大というのは現在の東京大学、一高は東大教養学部前期課程、そして一中は都立日比谷高等学校のことを指します。 一中は戦後に日比谷高校となったあとも圧倒的な進学校として全国に名を轟かせることになります。1965年まで東大合格者数全国トップを独走し、1964年には「193名」もの東大合格者を輩出しています。この記録は2012年に開成高校が203名の合格者を出すまで半世紀近く抜かれることのなかった大記録です。当時、このまま日比谷の天下が当面続くと思いきや、思わぬ事態が発生します。 1967年に都立高の学校群制度が導入されたのです。学区内に2~4つの群を作り、合格者をそのグループの各校に振り分けるという方式に変更されました。これにより日比谷へ優秀層が一極集中することがなくなり、これは「日比谷潰し」だとも言われました。 都立高校の格差をなくし、加熱する受験戦争を緩和させるというのが都の狙いでしたが、日比谷のようなトップ校からしてみれば良い迷惑だったでしょう。 日比谷高校は九段高等学校や三田高等学校と同じ群になりましたが、これは日比谷に行きたかった受験生が九段や三田に振り分けられる可能性もあるということを意味します。 日比谷に憧れてせっかく合格したのに、別の高校に振り分けられるという例も多く見られたようで、当時の受験生たちは堪ったものではなかったはずです。九段や三田に振り分けてしまい、不本意に感じた受験生がそれらを蹴って私立に進むケースも見られるようになります。日比谷に行けるかどうかわからないからと、高校から開成や東京教育大学附属駒場(現・筑波大附属駒場)高等学校に進学する生徒も目立つようになります。
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