「自炊できない」のは果たして真に「恥ずかしいこと」なのか…「自炊せよ」というプレッシャーの不思議さ
料理的実践の価値
私たちには料理をする権利がある、と主張するだけの価値が料理行為にはある。その理由をリストアップすることはそれほど難しいものではない。権利が利益を保護するものだとすれば、栄養状態をよくし、文化的な価値を有し、自律的な生活を営む利益もあるだろうし、個人の自律性を反映するものだとすれば、個人の幸福にとって不可欠な選択を行う能力を尊重することでもあるし、より道具的な価値があるとすれば公衆衛生の改善につながり、食事に関連する疾患に関連する医療費を削減する、といった言い方もできるだろう(cf. Wenar 2023)。こうしたイシュー化できる理由を作ることは大事だ。 しかし、おそらく美学者である私のメインの仕事ではない(頼まれれば作るかもしれないが)。私はむしろ、特段社会にかかわらない価値の方が気になっている。特段、権利の源泉として、政治家や国民を納得させられるとは思わない価値の方が気になっている。とはいえ結局こうした価値の方が人々を心から動かし、権利の理由を裏から支えているのではないか、とも思っている。 それは何か。私は、料理行為には、世界理解の営みとしての独特な価値がある、と考えている。料理は世界を独特の仕方で理解できるからおもしろく、価値があるのだと主張する。(1)素材、(2)化学変化、(3)調理スキル、(4)料理、(5)食べる人、これらへの理解が深まることが私に喜びを与えてくれる。ピーマンやにんじんがどのような硬さや特性や味を持った素材なのか、それらにどのように火が入り、調味料が染み込んでいくのか、それらにどのような調理を行えるのか、最終的にどのような料理が生まれ、食べてくれる人はどんな好みがあるのか。自分で料理をつくるおもしろさとは、これら複数の要素をより深く理解することそれ自体のおもしろさに由来していると私は考える。 もし世界から自分で料理をする文化が失われたら、それは世界を理解する一つの方法が失われるということを意味する。それは私にとって残念であるし、人類にとっても残念なことだと思う。なぜなら、人類というものはおそらくその本性上、何かを深く知ることそのものを味わえる生き物なのだから。その生き物にとって、世界を味わう料理というアプローチの損失は手酷いものになるだろう。それゆえ、私は、料理行為という世界理解の方法を基本的な価値の一つとして主張したいと思うのだ。私たちは、料理行為を通して世界をみじん切りにしたり、世界を蒸したり、世界をカラッと揚げたりしている。世界を料理することでしか理解できない世界のありようを、私はこよなく愛している。私たちが料理を通じて自分らしさを表現したり、他人と語らったり、世界と交渉したりすることの価値がこれからも人々の生を豊かにしてほしいと思う。