「自炊できない」のは果たして真に「恥ずかしいこと」なのか…「自炊せよ」というプレッシャーの不思議さ
自炊をめぐる問題を社会化せよ
以上の話から、自炊などという実践はたいしたものではなく、なくなっても差し支えない文化である、という主張を読み取ることもできるかもしれない。私は料理という行為を愛している。だから、自炊という文化それ自体が消え去ることを私は望んでいない。しかし、自炊がそもそも難しい状態にある人々にもっと自炊せよ、と命じることでは、自炊文化はどんどんとやせ細っていくだろう。だとすればどうすべきか。私が提案したいのは、自炊をめぐる問題を個人化するのではなく、社会化することで、自炊の課題に向き合うことだ。 たとえば東京で一人暮らしをする人を考えよう。この人は別のところから進学や就職で東京にやってきた。そのワンルームにはキッチンが付いているが、一口コンロのIHで火力も弱い。シンクも小さく浅いため鍋を洗うのも一苦労。おまけに乾かす場所も狭い。仕事終わりに閉まる直前のスーパーに行っても二人分以上の材料しかなく、何日も同じものを食べるのは苦痛である。さて、この人に先ほど挙げた料理本の筆者たちはかける言葉を持つのだろうか。私は持たないと思う。なぜなら、彼らのアプローチは問題の個人化アプローチの罠にハマっており、それは個人をさらに自炊の圧力で苛むだけだからだ。 社会化アプローチとは、自炊をめぐる課題を社会問題化することである。すなわち、誰しもにとって少なからず重要で、社会全体でサポートしたり問題解決に取り組むにふさわしい問題である、と広く人々に説得的な理由を示す、ということである。そこで私は「料理する権利」という権利を主張したい。私たちにはみなすべて、料理する権利がある。料理する権利とは、自分たちで材料を選んだり、自分たちに合う食事を作ったり、自分たちの好きなものを食べたりする権利であり、それらを労働環境や社会制度によって侵されない権利である。それは、たとえば家にトイレがあること、服を着られること、プライバシーの確保された住居で生活できることなどと並ぶ、基本的な人権と結びつく権利だと私は考えている。