「自炊できない」のは果たして真に「恥ずかしいこと」なのか…「自炊せよ」というプレッシャーの不思議さ
自炊できなければしなくていい
彼らは「自炊に難しさを抱える人を自炊できるようにしてあげよう」という思いから発信している。しかし、それは裏目に出る。どういうことか。なぜなら、あることを意識すれば自炊ができるようになる、と彼らは約束するが、その約束は呪いになるからだ。「風味」を味わえば自炊ができるようになる。だとしたら、自炊できないことは「風味」を楽しめない野暮な人だということになってしまいかねない。同じように自炊できないということは「セルフケア」のできない正しくない人であり、「自然な」身体の働きに感性を働かせられていない人になってしまう。「風味」「セルフケア」「一汁一菜」いずれにせよ、自炊をしなければというプレッシャーに立ち向かうための一時的な覚醒剤になるかもしれないが、持続的ではなく、よりプレッシャーの強度を高めることになる。問題を解決しようとして、事態はどんどんと悪化していく。彼らは決して悪意からこういうことを言っているわけではないだろう。彼らの語りからは、料理がふつうにできる私が、料理がふつうにできないあなたがたを励ましてあげたい、という善意を感じる。けれども、善意はいつも素敵な結果をもたらすとは限らない。 彼らのアプローチは根本的に間違っている。自炊へのプレッシャーに対処するためのもっともよい提案、それは「自炊をしなくてもよい」という提案である。風味を味わうことでもなく、セルフケアを実施することでもなく、一汁一菜でよいとすることでもない。自炊しないことである。これがおかしいと思うなら、そのおかしいという感性がどこから由来するのかを私たちは問いただしてみるべきだ。まずもって、自炊とはただの料理行為でしかない。やらなくても人生は十分豊かである。喩えて言うなら、楽器演奏と同じである。楽器演奏は確かに素晴らしい経験だ。人生を豊かにする。だが、やりたい人だけがやればいい。それだけの話である。料理はとても素晴らしい経験だ。料理でしかできない経験、料理がつないでくれる縁、料理がもたらす癒やし、いろいろある。だが、それだけだ。 人々が自炊に負わせる価値のほとんどは、自炊ではなくても可能だ。創造的行為がしたければ楽器を習えばいいし、セルフケアをしたければお酒をやめて運動したほうがよいし、暮らしのリズムを整えたければもっとよく寝たほうがいい。自炊を外在的な目的のためにすべきだというすべての言葉を黙らせよう。たまたま私たち人類にとって食が重要だから、自炊がさも重要なものに見せかけられているに過ぎない。服も大事だけれど「自服」する人はあまりいないし、住居は大事なのに「自建」する人もほぼいない。結局、自炊はたまたま材料が手に入りやすく専門知識がそれほど必要ではなく、食という毎日のことで、経済的に家計に優しそうだから重要そうな顔をしているだけである。お腹が減ったらコンビニでもなんでも食べればよい。自炊は楽器演奏や演劇や模型作りと同じレベルの趣味活動の一つでしかない。だから、自炊はやりたい人だけがやればいい。人生は豊かで複雑で可能性と選択肢に満ちている。料理は幸せになるための趣味の一つでしかないのだ。 料理はしたい人だけがしたらよろしい。にもかかわらず、自炊が好きな人はなぜ自炊を勧めるのだろうか。それはきつい言い方になるが、彼らが自分の手で誰かを救いたいというお門違いな妄執を抱いているからである。個人が個人を救うことなどできない。個人を救えるのは制度であり仕組みである。だから、自炊に悩む現代人を救うのは、料理が得意でふつうにできてしまう人が自炊をするための理由をあれこれ手を変え品を変え提示することではない。自炊に悩む人に向けて「自炊ってこんなに素晴らしいよ」と語っても「そんなに素晴らしいものをできない自分たちは惨めだ」と思わせるだけだろうから。 たとえばアメリカで低所得者の人々などを対象に実施されている補助的栄養支援プログラム(SNAP)のように、社会全体で食料政策を考え、栄養状態や食の喜びを公正に分配することのほうがずいぶんとましだろう。こんな解決策はつまらないだろうか? だが、世界をよくするというのはたいていつまらないものだと私は思う。そこに英雄やジャンヌ・ダルクはいらない。私たちの地道な知恵の組み合わせと制度や社会全体での持続可能なサポートが人々を救えるのだ(Bowen et al. 2019; Sugar 2019)。