「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
ジャンプ台はそれぞれ、大きさや形状が異なる。降雪や風をはじめとした自然現象に影響も受ける。最初から「遊び」と位置づけて、その思いをずっと抱き続けた笠谷さんにとって、第一に考えたのはいかに危険を回避して距離を伸ばすか、だった。だから決して人との戦いと捉えなかった。 「(世界のトップになるとか、五輪で勝つとかの意識は)俺はなかった、一度も。だからメダルやカップに執着しないんだな、結果だから。距離を出すことが一番気持ちいいと求めた結果の技術的な満足感だった。なぜなら遊びの延長だったから。俺は何しろ飛ぶのが怖い。怖いから楽しいんだよ。怖さを乗り越えたら楽しいじゃない。達成感がある。スリルがあるから楽しいのさ。それがなかったら、遊びって面白くない。」 (3)「タイミングは合わせない」と「空気に挟まるという安全弁」 北海道・余市高校(現余市紅志高校)で注目される選手になり、明治大時代の1964年、インスブルック五輪に出場した。ニッカウヰスキーに就職し、68年グルノーブル五輪にも出た。成績は64年の70メートル級が23位、90メートル級(現ラージヒル)11位、68年は23位と20位で、とても表彰台に届く力はなかった。
「外国選手をやっつけるとかメダルを取ろうとか、なかったな。ただただ彼ら外国選手はうまいな、と思って帰ってきた。やっぱり勝つやつってすごいんだ。15位から25位に入れば御の字と思っていた」 海外勢の圧倒的な実力を冷静に判断し、彼我の差を認識しながら、それでも遠くへ飛ぶためにどうするかという技術的な追究をやめなかった。転機の一つは、踏み切りのタイミングへの考え方を改めたことだった。助走路を滑って時速80~90キロで踏み切る。当初は助走路が切れるちょうどその場所で踏み切るのを理想としたが…。 「ジャンプは踏み切りのタイミングと方向性。この二つで成り立つというのが余市の考えだった。一生懸命タイミングを合わせようとやったさ。どんぴしゃりで合わせようと、そればっかりした。でもあれだけのスピードで滑ってきて、どんぴしゃりで合うわけないよな。でね、これは俺のいい案、アイディアだと思ったな。合わないもんだと、最初から合わないと。1メートルぐらい幅があってもいいと、タイミングのことを考えなくなった。そしたら合うようになった」