「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
4月23日朝、1972年札幌冬季五輪ノルディックスキー・ジャンプ70メートル級 国際連盟も笠谷幸生さん追悼
(現ノーマルヒル)を制して日本人初の冬季五輪金メダリストになった笠谷幸生さんが亡くなった。80歳。肺を長く患った末の虚血性心疾患だった。欧米以外で初めて開催された冬季スポーツの祭典で笠谷さんに続いて2位に金野昭次さん、3位に青地清二さんが入って表彰台を独占した「日の丸飛行隊」と呼ばれた偉業は日本中を熱狂させ、いま60歳前後の人たちは雪のない地域でも、公園の滑り台で笠谷さんらを模して遊んだ記憶があるだろう。 現役時代から寡黙で、報道陣を遠ざけるような人だった。引退した後も強面の印象があった。本人も「しゃべるのが苦手で人付き合いも嫌。人の後ろについて行くタイプ」と自認したが、じっくりうかがうと、特にジャンプについては考え、考えしながら素人に分かるように答えてくれた。一言一言に含蓄があり、ああなるほど、と納得させられた。そこから浮かび上がったのは「永遠のジャンプ小僧」という人物像だった。この10年ほど、何度も機会を設けて聞かせていただいた。いくつかのキーワードから、昭和のヒーローの一人で、稀代のスポーツ選手の思い、実像を残しておきたい。(共同通信=三木寛史) (1) 「完全な遊びだよ」
笠谷さんの出身は今の北海道仁木町である。札幌市と函館市を結ぶ国道5号の、小樽市から西へ向かって余市町で南下した辺りにある。教育者一家で、父親の三吉さんは大江小学校(現在閉校)の校長だった。5歳ごろに初めてスキーを手にした。当時の写真がある。身長より長いスキーを持ち、得意そうな表情を浮かべている。 「兵隊さんのお下がりなんだろうね。ただ斜面をすーっと滑るだけでは面白くない。飛んで遊ぶのが原点。ほんのちょっとした斜面に台(踏み切り場所)を造り、ポコンと飛んで、それが始まり。5、6メートルでいいんだよ。短い坂をちょこちょこ上がっては滑って飛ぶ。自分がどこまで飛べるか、スリルだよ。完全な遊びだよ。その延長でずっとやってきた」 冬になると雪はどこにでもあり、ジャンプは雪と戯れるための絶好の遊びだった。野球に例えると、子どもたちが一人でも球を黙々と壁にワンバウンドで投げつけ、返ってくるのを捉えるという行為と同じであろう。 (2)「スリルがあるから楽しいのさ」