「科学者vs.哲学者」のサイエンスウォーズは「物理帝国」黄昏の象徴?
「サイエンスウォー」は「物理帝国」黄昏の徴候?
よせばいいのに、文化世界に出ていって素粒子論や宇宙論の教えをありがたいと思えと宣伝すると、俄然、哲学者から反撃が始まった。 「物理学の見方は人間性を壊している」「アトミズムと数理的普遍法則は専門家集団のパラダイムに過ぎず社会構成物である」「現実の把握には理論負荷がある」「素朴実在論はソフィスティケートされていない」などと日頃感じていることを他人から言われて、物理学者の中にも鬱憤が高まった。 物理学者といっても千差万別で、こういうことについてどう考えようと、やっていける世界なのである。ただ柄にもなく別の世界に出ていってコミュニケーションができるかは別である。 科学者と哲学者の関係を政治家と評論家に見立てたとして、政治家が全員評論家並みにソフィスティケートされたら気味悪い。だから、少年並みにキレる物理学者もいるもので、97年頃にアメリカのある理論物理学者が科学哲学の雑誌に偽論文を発表して、それをまったく見抜けなかった哲学者の低脳ぶりを嘲るという挙に出た。 それに呼応して、あるいはもう少し品のある仕方で、科学者側からの科学哲学者への一斉攻撃が始まり、「サイエンスウォー」と呼ばれるようになった。評論家のお喋りにキレる者が出てくること自体に、筆者は物理帝国の黄昏を感じる。
科学が「公共性」を語ること
SSCもサイエンスウォーもアメリカの現象で、そこの科学と軍事・産業の関係、大学でのシェア争いなどが絡んでおり、読み解き方には制度的知識が必要である。 しかし、そういう特殊事情を差し引いても、重要な問題が含まれている。アメリカでは権威主義で決着させないので議論が深まるのはさすが科学先進国である。 筆者はまず20世紀物理学の時代拘束性の認識が必要であると考える。こうした脱構造化はあれこれの栄光や誇りを台無しにするから有害であるとする意見が多い。しかし、歴史の蒙を晴らしながら次世代が新しく時代を切り開くのであって、この役目を科学史家に期待したい。気軽な歴史読みものが多様な視点で数多く書かれるのを期待したい。 第2に大事なのは、科学は言説で成り立っているものではないが、「制度としての科学」には公共性を語れる言説が必要だということである。20世紀後半の50年、国民国家の制度として科学の大半を「制度としての科学」へと変身させた物理学こそが、この基準を振りかざして生きたのである。 (『物理学の世紀』より) 佐藤文隆氏による20世紀物理学史、そして未来への提言は「「知の王者」物理学の栄光と黄昏……「コスパ時代」に科学が生き残る道はどこにある?」を、「物理学の世紀」を代表する巨星アインシュタインの”神話”については「世界が熱狂「アインシュタイン現象」 その裏にあった「西洋の没落」への不安と「原爆」への予感」を、そしてそれに続くマンハッタン計画から原爆投下へ至る歴史については「原爆が焼きつけた物理学の「栄光」 オッペンハイマーのマンハッタン計画とアトミックパワー」を、オッペンハイマーの失脚から冷戦と物理学の蜜月、そしてその後の顛末については「「物理帝国」のヘゲモニーを牽引した冷戦の力学 しかし「核のツケ」はいつ誰が払う?」を、それぞれご覧ください!
佐藤 文隆(京都大学名誉教授)