「科学者vs.哲学者」のサイエンスウォーズは「物理帝国」黄昏の象徴?
オーラ?
物理の各分野を階梯的にどう見るかは各人の自由だし、素粒子論は結構面白いし、他分野へのインパクトもあるだろう。その意味では公共的にも立派に育てていかなければならない1つの分野である。 しかし、このように他と横並びにした課題群から、議論可能なタイムスケールでのインパクトで選択するという構図になったのでは、誰が考えてもSSCには分がない。「急ぐものでないから、次世代への贈り物として手を付けずに引き継いだら」という示唆もある。 批判派の描く科学の見取り図は、対等な分野間のネットワークであって、当面の資源配分は他分野へのインパクトというわけである。そこで推進派の描く構図は、チャラチャラしたインパクトなどを超越した精神的なオーラとして支配-被支配の上下関係があるのだと飛躍する。 「流体力学の方程式に、それを基礎付けている素粒子の標準理論を感じる」と推進派のワインバーグは書いたが、「Dブレーンの背後に、それを基礎付けているニュートン力学を感じる」こともできる。人間が進めている営みとして科学を見るなら、後者のほうがはるかに実践的である。
「真理」をめぐる研究者と文化世界の齟齬
「オーラ」の話は公共性ある制度としての科学の現場には適さない。そこで、ルーツを探る人類の知的欲求に応える「宇宙の根源」の探究だと、推進派はアピールの方向を変えた。諸科学へのインパクトなどを超越した公衆の文化的なアスピレーションに訴えて、支持を得てから科学界に戻ってくればいいと。 しかし、批判派は「そんなに人気があるなら”公的資金”などに頼らず、大もうけしたら」と揶揄し、推進派の「最終理論」というセリフも、金が絡むと、放蕩息子が「これが最終です」と親に借金を迫る情景になってしまう。 確かに、精神的欲求に応える文学、音楽などのもろもろの芸術、また宗教、スポーツといった営みにも公共性はあるが、私的な資源を基本にしている。したがって、その世界に入っていってシェアを取る売り文句がいる。そこで、「こちらは科学的真理である」と言い出す。なにしろ、神髄の理解には訓練がいるから、公衆にチンプンカンプンのものを売るにはこういう偶像化や権威主義で威圧する以外にないのだ。これこそ近世において科学が批判してやまなかったものである。 それと、研究者は「真理」とは試験答案の正解のような意味に取るが、文化世界に出れば、生きることの根源的問いかけに応えるものが真理である。「最終理論」真理とは大分差がある。客観的真理、実証可能な真理などで他の教えに差を付けるつもりなら、科学のインパクト主義に舞い戻ることになる。したがって、文化世界ではそれほど信者が獲得できない。