平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 「ご一新」で全国各地に現れた散切り頭の女性たち
男装の浄瑠璃語りと煙草屋の女房の駆落ち
翌年報じられた、同じく股引き腹掛けスタイルの女性おゆき(18歳)は用賀村(荏原郡用賀村。現世田谷区用賀)在住。男性に混じって博打はするわ、喧嘩はするわ、持て余した父親が懲治監(刑法不論罪の幼者または聾唖者および不良の子弟で親の請願による者を収容懲治するところ)に入監させたが、改心しただろうと思い数ヶ月後に願い下げて家に戻すと、元通りとなり、とうとう品川の娼妓買いに行ってそこでも喧嘩をして百姓の父親を泣かせていると1880年3月18日付「読売新聞」に出ている。この時代、幼少期から男性に混じって遊ぶことが好きで成長とともに男装するパターンがいくつか見られる。これは、性自認が男性ということなのか、女性よりよほど自由な男性という身分に同化してのことなのか、あるいはその両方なのか、いずれにしても懲治監に入れて改心させようとは乱暴である。 三年後、今度は新富町三丁目(現中央区新富一丁目)に住む煙草屋の女房おふくが近所に住む女浄瑠璃語りの竹本濱吉を家にあげて朝から晩まで酒を飲んで遊んでいるとの記事が1882(明治15)年3月5日付読売新聞に出ている。借金ができると夫の所持品を売ってお金を作っているので見かねた出入りの車夫が夫にご注進に及び、厳しく叱ったところ、2、3日後に濱吉とどこかへ出かけて行方不明とのこと。記事は「女同士の駆落というも珍しい」と締められているが、恋愛感情があったものか、単なる家出の同行かは判然としない。 浄瑠璃語りは室町時代に発祥したと思われる音曲芸能で、三味線などをバックに物語り、扇子をたたいて拍子をとる。 開祖は諸説あるものの永禄年中(1558~1570年)に京都四条河原で興行した女性、六字南無右衛門〈ろくじなむえもん〉が定説。なお、明治20年代以降に爆発的に流行した女義太夫(または娘義太夫、女義、タレ義太)の開祖は初代芝枡〈しばます〉で、寄席(貸座敷など人を集めて演じる場)で演じた元祖ともされている(『江戸東京娘義太夫の歴史』)。ちなみに義太夫節は竹本義太夫がはじめた浄瑠璃のなかの一派で、浄瑠璃とは語りもの全体を指す。 興味深いことにこの事件の3年後、わずか13歳で上京して女義太夫として初目見えをして一斉を風靡した竹本綾之助は少女ながら五分刈り頭で裃姿だった。なぜ女義は男性名が多く、男装をしているのかについてはいくつか説があるが「戦国の稚児さん趣味の影響である」とは稲垣史生の言(『歴史考証事典』)である。 それにしても、男装の浄瑠璃語りと煙草屋の女房の運命やいかに......。 なお、9年後に施行された明治刑法に違式詿違条例は受け継がれず、異性裝自体は無罪となったが、一度犯罪と看做されてしまうとそう簡単に偏見は解けず、以降も男装者は何かと話題にされたのである。 村上信彦『服装の歴史 1』(理論社、1956年) 村上信彦『服装の歴史 2』(理論社、1956年) 石井研堂「ザンギリ物語」『新旧時代』(11-12)(明治文化研究会、1926年) 斎藤月岑 著 金子光晴 校訂『増訂 武江年表1』『増訂 武江年表2』(平凡社東洋文庫、1983年) 山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫、2014年) 岡光男「日本女性の男装と洋装とー明治・大正期の新聞記事を中心にー『風俗:日本風俗史学会会誌』9(3/4)(35)(日本風俗史学会、1970年) 坂誥智美「「違式詿違条例」のなかのジェンダー」『専修法学論集』(128)(専修大学法学会、2016年) 春田国男「違式詿違条例の研究ー文明開化と庶民生活の相克ー」『別府大学短期大学部紀要』(13)(別府大学短期大学部、1994年) 馬場まみ「近代化に求められた服装一洋服着用状況にみる男女の差一」『日本衣服学会誌』54(2(日本衣服学会、2011年) 山崎晶「明治初年大阪での違式詿違条例の受容ーおどけとあきらめー」『社会学評論』56 (4)(224)(日本社会学会、2006年) 岡田道一『明治大正 女義盛観物語』(明徳印刷出版社、1953年) 水野悠子『江戸東京娘義太夫の歴史』(法政大学出版局、2003年) 水野悠子『知られざる芸能史 娘義太夫 スキャンダルと文化のあいだ』(中公新書、1998年) 「寄書」『読売新聞』1879年4月17日 『読売新聞』1882年3月5日 『読売新聞』1880年3月18日 稲垣史生『歴史考証事典』(新人物往来社、1974年)