自主的な製造業、インフォーマル部門はアフリカ工業化の希望となるか?(上)
鉱物資源が豊富で、未開拓の広大な大地に熱い視線が注がれては、夢は裏切られる。数年に一度やってくるアフリカ投資ブームは、常に一時的なものにすぎず、持続可能な発展を遂げられずにいます。 しかし、その状況下、ある分野においては一筋の明るい光も垣間見ることができます。アフリカがアフリカらしく経済発展を遂げるために、他国が注目べきアフリカの底力とはどのようなものなのでしょうか? 京都大学大学院および神戸大学大学院教授 高橋基樹さんが解説します。
前回の第4回では、アフリカ諸国が全体としては「負の脱工業化」という現象に苦しんでおり、その原因として1980年代に始められた大規模企業への保護や補助の削減・撤廃、また、中国など新興国からの安価な工業製品との競争による圧迫があることを指摘した。そのうえで、こうした工業全体、中でも大企業の不振の陰で、インフォーマル事業者にはやや異なる動きがあることに触れておいた。 この回と次回では、そうしたアフリカのインフォーマル事業者の小規模・零細製造業(ものづくり)を中心とした経済活動について話を進めていくことにしよう。その話を始めるにあたって、不振に陥ったアフリカ経済にまつわる私自身の「思い出」について述べてみたい。
ケニア再訪―ついえた開発の夢の向こうに見つけた生への活力
このコラムの第1回で、私がまだ学生であった1980年にケニアを訪れ、そこに輝く未来に向かって歩んでいく国の若々しさを見たことを記した。11年後の1991年、開発援助調査の世界で職を得た私は、再びケニアに赴いた。その時の私の目に映ったこの国の姿は、1980年の印象とは大きく異なっていた。 首都ナイロビの近代的ビル群は汚れでくすみ、調査のために訪ねた官庁のいくつかでは、私的な陳情に来たらしい客が所在なさげに高官との面会を待つかたわらで、手もち無沙汰で新聞を読みふけるしかない様子の職員を何人も見かけた。日本人の援助関係者の間ではケニア人政治家や高官の汚職の蔓延がささやかれていた。 すでに触れたように1980年代に入り、アフリカの経済は全体として停滞に陥り、政府の財政難や行政の機能不全が深刻化した。そうした状況をよそに政治は多くの国で強権化し、汚職と蓄財に励む為政者や高級官僚の腐敗ぶりが指摘されるようになっていた。ケニアもその例外ではなかったのである。 1980年にも訪れたことのある国立公園を息抜きの時間に訪れると、観光施設にはひび割れや塗装のはがれなどの老朽化が目につき、11年ぶりにケニアの自然に触れたうれしさも半減してしまった。ケニア経済の不振が、主力の観光を含む民間企業にも及んでいることが私の心を刺した。私が1980年にケニアとアフリカに見た開発の夢は、はかなくついえてしまったように感じられた。 その後、現在まで数年おきにケニアを訪れているが、2000年代の始めまでの間、訪ねる度にナイロビの印象は「悪く」なっていった。市街を歩く人の数、なかでも職にあぶれたと思われる人びとはどんどん増え、混雑が激しくなり、路上に散乱するごみは訪ねる度に増えるように見えた。人びとはせわしくなく行き交い、中には白昼から酔って目を血走らせ、何かへの怒りと呪いの言葉を吐いているような男もいる。治安の悪化が指摘され、宿泊先から外出する度に、犯罪にあうリスクを思い浮かべて緊張を強いられるようになった。 こうしたことの背景には、ケニアの複数政党制への移行に伴い、農村部で展開していた政治的紛争や、構造調整による政府公共部門の人員合理化があるのだが、それらのことにはまた後日触れることにしよう。 印象の「悪化」の一方で、私は別のことを強く感じるようになっていった。それは街にあふれる人びとの生きることへ向けられた活力のすさまじさである。路上でものを売り、あるいは、もの乞いをする人びとの必死さを見ているうちに、せわしなく動く人びとの相貌、彼らがつくり出す雑踏、ごみの散乱、犯罪の増加もある意味ではそうした活力の発露であるように感じられ始めた。政府公共部門やフォーマル部門の状況にはたしかに悲観的にならざるを得ないが、それだけでアフリカを語るのは、片面しか見ていないのではないかと思うようになったのである。