2025年「戦後80年」で”密かに話題”、「戦史検定・公認参考図書」が教える「教科書には書いていない戦史」の”スゴすぎる中身”…!
日本海軍始まって以来の不祥事件
ミンダナオ島のダバオは、南部フィリピンにおける日本軍の根拠地であり中継基地であっ たが、1944年9月1日以降ビアク島などからの米陸軍機の本格的な爆撃を受け始めていた。また9日には米機動部隊の艦載機の空襲も受け、そのような状況下の10日未明、同島南端の見張所から米軍上陸の報告が入る。 さらにダバオの見張所からも上陸用舟艇発見の報が入り、同地警備の第32特別根拠地隊司令部は「敵ダバオに上陸」と発信した。 これを受け、やはりダバオにあった第一航空艦隊司令部はその対応に追われる。連合艦隊司令部も「捷一号作戦警戒」を発令するまでに至った。 結局見張り員の誤報であったが、ただダバオが1日パニックに陥っただけでおさまらず、侵攻してきたとされる米艦隊に対応するためセブ島、ネグロス島に集まった陸海軍機が12日、13日と米艦載機の攻撃を受け、大損害を受けるのである。戦史叢書は「日本海軍始まって以来の不祥事件」と書いている。
蔣介石「日本軍を模範とせよ」
第56師団が守備する雲南省において、最前線の拉孟から北東60キロメートルにある交通の要衝が騰越である。騰越は昔からの城郭都市で、ここを守備していたのは第148連隊 長・蔵重康美大佐指揮の約2000名であった。 しかしその東西南北には独立した高地があり、城郭と共にそれらも守備する必要があった。6月27日から、陣地は中国軍と米軍からなる雲南遠征軍5万の攻撃を受け始める。 8月13日、蔵重大佐が戦死。その後始まった市街戦を、後を引き継いだ太田正人大尉が巧みに指揮した。そして敢闘1カ月の後、9月14日守備隊は最後の突撃を行ない玉砕。 1週間前の拉孟と同様、太平洋の孤島における玉砕戦は多いが、大陸において玉砕した珍しい例となる。 後に、蒋介石が自軍の将兵に対して「ミートキーナ、拉孟、騰越の日本軍を模範とせよ」 と訓示している。いわゆる逆感状ともいえるもので、日本軍の敢闘を讃えている。
潮書房光人新社