2025年「戦後80年」で”密かに話題”、「戦史検定・公認参考図書」が教える「教科書には書いていない戦史」の”スゴすぎる中身”…!
元五輪少尉、「魔のサラワケット越え」
9月4日、米軍はついにニューギニアのラエに上陸。翌5日にはラエ西方のナザブに空挺部隊が降下。こうして進退窮まったラエ、サラモア地区の日本軍は玉砕を覚悟したが、司令官の命令によりキリアに向け4000メートル級の山々が連なるサラワケット山系を越えることになる。 これを先導したのが、北本正路少尉指揮の工作隊であった。北本少尉は慶応大学陸上部時代、1932年のロサンゼルスオリンピック1万メートルに出場、箱根駅伝でも母校を優勝に導いた人物だった。少尉は山系越えで補給が可能かを偵察するためサラワケットを踏破してきた経験を持っていた。 9月12日、第1陣が出発。 急峻な山越えであるため将兵が背負った食糧は10日分であった。北本工作隊がキリアに到着したのが10月5日。すぐに救援隊と共に取って返し、転々と落後している将兵を収容した。 しかし、目的地キアリに到着するまでに、8500名中1100名が飢え、寒さ、転落により命を落としている。
数十倍の敵を相手に100日余り抵抗
1944年4月下旬、中国軍の雲南遠征軍総司令官・衛立煌大将が司令部を怒江東部の保山へ進出させる。それまでの中国軍とは違い、米軍により指導され米式装備された部隊で、 その兵力は約20万。5月中旬行動を起こし、まずその矛先が向いたのがミートキーナであった。そして怒江を渡り、大挙して雲南から北ビルマへと攻勢に出てきた。 これに対抗する日本軍は第五六師団のみ。師団は要所に守備隊を残し、機動しながら戦っていた。その要衝の最前線が怒江にかかる恵通橋を眼下に見下ろす拉孟であった。 この地を守備していたのは、野砲兵第五六連隊第三大隊長の金光恵次郎少佐指揮の約1300名であった。金光少佐は一兵卒として入営、その人柄と能力を認められ陸士へ進み士官となった人物で、何より兵隊の気持ちを理解できたことで部下の信任が厚かった。 守備隊は6月2日から遠征軍5個師団4万8000名の攻撃を受け始めたが、堅固な陣地と金光隊長の巧みな指揮により、数十倍の敵を相手に100日余りにわたって抵抗を続け、9月7日ついに玉砕した。 なお、金光隊長は師団への報告のため、木下昌巳中尉に脱出を命じた。中国語に堪能な木 下中尉は地元民に変装し、藁で包んだ軍刀を天秤代わりに片方の籠には戦闘報告書、もう片 方には手榴弾をしのばせ、2人の部下に前後左右を護られながら敵中を突破、10日後に師団の前哨線まで到達した。