2025年「戦後80年」で”密かに話題”、「戦史検定・公認参考図書」が教える「教科書には書いていない戦史」の”スゴすぎる中身”…!
米潜水艦を過小評価、のちに大きな代償
日本海軍には、緒戦において輸送船(団)を敵潜水艦の攻撃から守るという概念がほとんどなかった。連合艦隊にとって船団護衛というのは副次的な任務であって、あくまで「艦隊決戦」に備えるのが主眼だった。 しかしその後は、占領地域からの資源の還送、同地域への軍需物資の補給が大きな眼目となる。参謀本部は軍令部に対し、補給のシーレーンの保護を求め、その要請に応えて編成されたのが、海上護衛隊だった。もっとも連合艦隊から一線級の艦艇の提供はなく、旧式小艦艇でようやく編成した程度の貧弱なものだった。 一方、当時は米軍側にも大きな課題があった。一つは、開戦直後日本軍によるフィリピン航空撃滅戦が行われたが、キャビテ軍港が空襲された際に備蓄していた魚雷をすべて失っていた。さらに魚雷自体にも欠陥があり、目標に達する前に自爆したり、命中しても不発という事態が続出していた。 こうしたことから日本海軍は米潜水艦を過小評価し、潜水艦対策をおろそかにした結果、翌年後半以降に大きな代価を支払うことになるのである。
零戦の不時着、敵への有力情報提供に
アッツ、キスカ島占領自体はたやすいと考えられたが、列島東端にあるウラナスカ島ダッ チハーバーはアリューシャン方面の米軍の根拠地であり、これを無力化しておく必要があった。こうして6月4日、第二機動部隊は戦爆連合45機でダッチハーバーを空襲。しかし悪天候のため、さしたる戦果はなかった。翌5日にも31機で同地を再度空襲、陸上施設に損害を与える。 しかしこの時、対空砲火で傷ついた零戦1機がアクタン島に不時着。この機体が米軍により発見、回収される。米軍はこの機体から零戦の性能を詳細に調査し、零戦との戦い方を研究、太平洋戦域の全パイロットに周知させた。
ガナルカナル戦の「縮小版」
ニューギニアの東端ミルン湾に面するラビで、1942年8月初め、連合軍がこの地に飛行場を建設しているのを海軍の偵察機が発見した。米軍同様に同地に進出しようと考えていた海軍は、第八艦隊所属の第七根拠地隊にラビ攻略を命令。24日、今回の作戦の総指揮官である第18戦隊司令官松山光治少将が、軽巡「天龍」と駆逐艦3隻で輸送船2隻を護衛、陸戦隊1200名を上陸させた。しかし守備についていた連合軍は、オーストラリア軍2個旅団を中心に約1万名で、日本軍は27日に夜襲をかけるも当然のごとく失敗。まさに、ガダルカナルでの一木支隊と同じ状況であった。29日、「天龍」と駆逐艦6隻に護衛された哨戒艇3隻に分乗した800名が続いて上陸。31日、再度攻撃をかけるも失敗。指揮官、さらに次席指揮官も戦死傷し、また部隊は応召が多かったこともあり統率を失っていく。この状況をみた松山少将は独断で撤退を決めた。 9月5日、「天龍」と哨戒艇2隻で残存部隊をラバウルに撤退させた。この時の戦死者は約600名だった。状況判断の甘さ、敵軍の過小評価、装備不十分な兵力の逐次投入など、ガナルカナル戦の「縮小版」ともいえる戦闘だった。