「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん
なぜ野澤が社長になったのか。 実際、「総会屋事件」の責任をとって8月に辞任した三木淳夫社長の後任選びは難航した。それまで山一証券のトップは、行平や三木のように国立大卒でMOF担(大蔵省担当)経験のあるエリートで、法人部門や企画部門の出身者であることが慣例となっていた。 しかし、不祥事を受けた有事において社長の第一条件はまず、「総会屋事件」や「簿外債務」に関わっていないことだった。 加えて、社内政治にも縁遠い、正直で「言うことを聞く」ことが重視され、国内営業畑一筋の野澤が指名されたという。最高実力者だった「山一のドン」行平前会長や三木前社長ら、辞任した11人の役員は、そのまま『顧問』として社内に居座っていたからだ。しかし、行平と三木はのちに東京地検特捜部に逮捕、起訴される。 最後の社長となった野澤は法政大学卒、国内営業一筋から這い上がってきた。長野県の農家の四男、畑仕事が好きで実直で素朴な人柄だった。 「社員は悪くありませんから!」と号泣し、社員をかばう野澤の会見は、日本の金融危機を象徴するシーンとして海外メディアでも大きく報道された。 実はこのとき、野澤が泣きながら、社員の再就職の支援を訴えた発言。実は山一の労働組合執行部が野澤に「公の場」で発言するよう求めていた「約束」であったことが、後に明らかになった。だが、そもそも優秀な人材が多かった山一は、9割以上の社員が再就職を果たしたと報じられた。 国広ら調査チームは、12月末から約4か月間にわたって三木前社長をはじめ100人を超える関係者のヒアリングを行い、彼らの声に丁寧に耳を傾け、帳簿など大量の証拠書類の分析をした。その結果を106ページに上るドキュメントとして記録したのである。 渾身の「社内調査報告書」は、当初予定だった「全員解雇の日」の3月31日から2週間遅れたが、なんとか1998年4月16日に公表にこぎつけた。 国広は嘉本委員長らとともに記者会見に臨んだ。