「望む形の復帰ではないことを、命をかけて表現しようとしたのか」――復帰1年後に国会議事堂に激突死した沖縄の青年が残すもの
コザのAサインバー(米軍公認の飲食店)で働いていた安隆さんと安房さんも騒動に加わった。後日の逮捕も含めると三十数人が逮捕され、10人が放火などの疑いで起訴された。安隆さんは起訴された10人の一人だった。 安隆さんは1971年1月に保釈されると、友人を頼って東京に出た。安隆さんの足跡が追える資料は多くないが、ジャーナリスト・森口豁さんの著書『「復帰願望」──昭和の中のオキナワ』に、アパートの大家の女性の「おとなしい人でしたよ。別にこれって……家賃はちゃんと持ってくるしね」という証言が記録されている。 一方で、コザのバーテン時代はジルバダンスでペアの女性をうまくリードしてくるくると回転させ、安房さんが「外人よりうまい」と言うほどだった。また、同郷者の多い川崎市に引っ越してからは、酒席などで沖縄の基地問題に話がおよぶと、政治のあり方に対して怒りをむきだしにすることもあったという。
1970年代の沖縄の青年たちの心情
当時の沖縄の青年たちは、本土復帰に対してどんな思いを抱いていたのか。安隆さんと同世代の批評家、仲里効さんを訪ねた。安隆さんと直接の面識はないが、著作で安隆さんに触れており、その死に強い関心を持った数少ない一人だ。 「彼はコザ騒動で起訴までされて、川崎に来ていろんな仕事をしていくうちに、沖縄へのこだわりを強くしていったと思います。国会に突っ込んで自らの命を絶つという彼の行動を突き詰めて考えると、日米両国の沖縄支配のあり方の否定と、それを自らをなげうって訴えていくということだったのではないか。あの時代に沖縄の青年たちが悩んだり考えたりしたものと共通するのではないかと思うのです」 仲里さんは復帰の年は東京にいて、沖縄出身の学生や集団就職で内地にやってきた青年たちが結成したノンセクト(無党派)の政治組織、沖縄青年同盟に関わっていた。沖縄では本土復帰を祝う空気が圧倒的だったが、米軍基地を残したままの復帰は果たして復帰と言えるのだろうか、という言説もあった。 「ぼくらの主張は、日米で決めた返還協定それ自体を拒否して、その先に沖縄の自立を考えていくということでした。日本という国家に同一化していくという考え方や運動を根本的に断ち切らなければ、沖縄の新しい展望は開けないのではないかと考えました。沖縄の近現代史の精神構造を幽閉し、拘束した“病根”のようなものを断ち切っていく。沖縄がどういう理念の政治体制を持つかは、次の段階の議論だと考えていました」