「望む形の復帰ではないことを、命をかけて表現しようとしたのか」――復帰1年後に国会議事堂に激突死した沖縄の青年が残すもの
本土復帰から1年と5日後の1973年5月20日。沖縄出身の青年がオートバイで国会議事堂の門扉に突っ込み、即死する事件が起きた。遺書はなかったが、双子の兄は「絶望していたんだろう」と話す。背景にあるものとは。関わる人に話を聞いた。(取材・文:藤井誠二/撮影:ジャン松元/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
国会議事堂に突っ込んだ青年
今から49年前の1973年5月20日。一人の青年がオートバイで国会議事堂正門の門扉に突っ込み、即死した。正門は、警視庁のある桜田門の坂を登り切ったところにある。当時の新聞報道によれば、警備に当たっていた警察官が、正門前の信号が青に変わるや、オートバイが時速80キロで突進するのを目撃した。ブレーキ痕はなかった。 青年の名は上原安隆といい、沖縄出身の26歳の男性だった。神奈川県川崎市のアパートに住み、長距離トラックの運転手をしていた。遺書はなく、事故か自殺かは明らかにされなかった。門扉はただちに修理された。安隆さんの死が社会を大きく動揺させることはなかった。 沖縄の本土復帰1年後のこの出来事を記憶している人は、沖縄でも数少ない。 沖縄本島北部の恩納村に、安隆さんの双子の兄、上原安房さん(75)が暮らしている。安房さんは「弟のことは忘れたことがない」と言う。10年前に脳梗塞をわずらった影響で言葉や記憶に多少の障害が残るが、うちなーぐちを交えてゆっくりと話す。
「(無条件全面返還ではなかった本土復帰への)抗議だったと思う。絶望もしていたんでしょうね。復帰後の沖縄への期待半分、日米政府への絶望半分。復帰して50年になるけど、弟が生きていたら、今も同じ気持ちだろう」 安房さんの自宅は恩納村の喜瀬武原(きせんばる)地区にある。取材のあいだ、パン、パンという乾いた射撃音が聞こえていた。ヘリの旋回する音、機関銃を連射する音。米軍の演習場がすぐそばにある。かつて、地区を通る県道104号線を通行止めにして、その上を飛び越えて155ミリ榴弾砲実弾射撃演習が行われた。住民は演習のあいだ産業道路へ迂回しなければならなかった。民家に流れ弾が当たったり山火事が起きたりもした。県道104号線越え実弾砲撃演習は1997年に県外に移転されることになったが、実弾を使う演習は現在も行われている。 「(安隆さんは)コザ暴動も引っ掛かっていたんじゃないかな。私も参加していたのに、なんで弟がつかまったのか。みんなが首謀者だったんだ。弟は優しくておとなしいやつで、よく本を読んでいたよ。(高橋和巳の)『孤立無援の思想』という本を読んでいたのは覚えている」 コザ暴動とは、1970年12月20日未明にコザ市(現・沖縄市)で起きた反米騒動だ。きっかけは、米兵が運転する車が道路を横断中の男性をはねたことだった。事故現場に集まってきた群衆にMP(米憲兵)が威嚇発砲、怒りを募らせた人々は米軍関係者の車をひっくり返し、火を放った。約5000人が参加したとされる。