「武蔵高校から2浪で東北大」浪人を後悔した彼がかなえた夢。高校生活は充実していたが成績は低迷
宗前さんは、毎週日曜日に50分かけて新宿の塾に通塾していたときのことを「ほかの子がやっていないから見栄を張りたかった」と振り返りますが、そのときに身についた勉強習慣が生きたためか、四谷大塚に移ってからも毎週土日の授業やテストを真面目に受け、6年生になってからは四谷大塚と並行して地元の塾に通いながら受験勉強を重ねました。 その甲斐あってか、中学受験では開成・麻布とともに私学男子校「御三家」と称される武蔵中学に合格しました。
■武蔵で充実した生活を送るが成績は低迷 日本トップレベルの学校に進んだ宗前さんは、学校での授業がとても自身の肌に合っていると感じました。 小学校から中学校にかけてラジオと鉄道が好きだったことから、放送業界か鉄道会社に入りたかったそうですが、高校2年生のときには、学校の授業がきっかけで大学教授・研究者になりたいと思うようになりました。 「武蔵高校の授業はアカデミックで、対象を深く掘り下げることを重視するものだったのですが、それがとても面白かったのです。なぜ先生方の授業が面白いのかを考えると、背後に深い知識があるからだと思い、私も先生のように深い知識を身につけて、学問を追究する生活をしたいと考えるようになりました」
どうすれば大学教授になれるのかと考えたときに、メジャーな大学院に進んで、しかるべき先生の門下に入ることが大事だと思い、東大をはじめとする旧帝国大学に進学することを目標としました。 しかし、周りの同級生がとてつもなく優秀であったため、入学してから卒業まで、一貫して成績は低空飛行でした。 「武蔵中学校・高校は同級生が140~180人程度の学校です。当時、60~80名程度は東大に行くほどの進学校だったので、飲み込みが遅い私ではついていくのが精一杯でした」
「小学生のときは勉強のやり方を理解しなくても好成績を取れた」と語る宗前さんでしたが、中学生以降は気合いと根性ではなんとかならない領域に突入してしまったことが、スランプに陥った要因だったと宗前さんは考えます。 中学生の最初のころは144人中120番くらいの成績でしたが、高校2~3年のほうになると高校入学組を合わせた178人中、つねに後ろから4番目の成績になってしまいました。 机に4~5時間は向かっていて、勉強そのものはしていたものの、「本を読んでしまったり、ラジオを聞いたりしていて集中はできていなかった」と、宗前さんは中学~高校の日々を反省しています。