32歳、専業主婦から「町工場の2代目」へ。50代になった今振り返る“感謝と戦いの日々”【諏訪貴子さん】
母の第一声は「かわいそうに」だった
――ご著書の中でも、諏訪さんが「兄だったらきっとこっちを選ぶ」と心の中で対話している様子が印象的でした。創業者の娘である諏訪さんが会社を継ぐ決断をしたときは、お母さまもさぞ喜ばれたのではないですか。 諏訪:それが、逆だったんですよ。「私が継ぐよ」と言ったとき、最初に母から言われたのは「かわいそうに」という言葉でした。母は、女性が外で働く、特に子育てをしながら働くということに抵抗があったようです。会社を継いだのは20年前のことですし、今ほど女性の働く環境が整っていない時代でしたから、仕方がない言葉なのかもしれません。社長に就任した当時は、「息子が一人でかわいそう」と母から責められたりして、喧嘩になることもしょっちゅうでした。 それに、父と母が一緒に立ち上げた会社でもあったので、母としては「娘に会社を取られた」ように感じたのかもしれません。私が社長としてどれだけ頑張っても褒めてもらえることは少なくて、「母親」として責められることの方が多かったですね。だから、母にはほとんど弱音を吐きませんでした。 そんなときに、私をかばってくれたのが息子だったんです。息子は母に、「僕は寂しくないよ。だってお母さんはお仕事頑張ってるんだから!」と言ってくれたりして。息子には本当に感謝しています。
「10年戦争」を過ぎて、初めての褒め言葉 ――慣れない社長業もしながらの子育ては、お母さまがご家庭のことをサポートされたのかな? と勝手ながら想像していました……。 諏訪:子育てはママ友たちが私の状況を理解してくれて、息子を預かってくれたり、お迎えに行ってくれたりしたんです。友人たちのサポートには本当に助けられました。でも、母も意地悪で手出ししなかったわけじゃなくて、息子が大きくなるまでは遠くから見守っていたのだと思います。社長としての、私の覚悟を見たかったのかなって。 息子が中学を卒業する頃、ようやく母が「一人でよく頑張ってきたわね」って言ってくれたんです。初めての著書『町工場の娘』を出したときも、母が一番喜んでくれた。 社長になってからの10年間、会社経営は試行錯誤で、まさに「10年戦争」でした。母が労いの言葉をかけてくれたのは、そんな時期を乗り越えてようやく落ち着いてきた頃のこと。母も4年前に亡くなりましたが、褒められたときは本当に嬉しかったのを覚えています。母は私の奮闘ぶりをよく見てくれていたんだと思います。