32歳、専業主婦から「町工場の2代目」へ。50代になった今振り返る“感謝と戦いの日々”【諏訪貴子さん】
中小企業庁の報告によれば、日本企業のうち中小企業が占める割合は99%。そんな日本経済の屋台骨ともいえる中小企業では近年、経営者の高齢化と後継者不足が深刻化しています。2023年の日本政策金融公庫の調査では、4465件の回答のうち、後継者が決定している企業は10.5%、廃業を予定している企業は57.4%という結果に。読者のみなさんの中にも、今まさに家業を継ぐかどうか、事業承継の問題に直面している方がいらっしゃるかもしれません。 今回ご紹介するダイヤ精機の社長、諏訪貴子さんは、20年前に創業者であるお父さまが急逝し、専業主婦から突如「町工場の社長」を継ぐことになりました。32歳の若さで社長となり、その10年間の奮闘を綴った著書『町工場の娘』は、NHKでドラマ化もされています。 後継者としてどのような苦労があったのか、そしてどんな思いで社長業と向き合ってきたのか。現在、50代のベテラン経営者となった諏訪さんに、インタビューでお話を伺います。
夫の単身赴任について行くはずが…
――お父さまが64歳で急逝され、諏訪さんは32歳で町工場を継がれましたが、そのときどんな状況だったか教えていただけますか。 諏訪貴子さん(以下、諏訪):実は当時、夫が仕事の関係でアメリカに赴任することが決まっていました。私も、6歳だった息子も一緒に行く予定で引っ越しの準備をしていて。そのさなかに父が亡くなったので、ダイヤ精機の今後について、急きょ家族会議をすることになりました。私の夫に社長を任せる選択肢もあったのですが、最終的には私自身が社長を引き受けることに。簡単な決断ではなかったですが、後悔しない選択をしたいと思ったんです。それで家族で話し合った結果、夫はアメリカに単身赴任、私は日本に残ってダイヤ精機を継ぐことにし、息子は私と一緒に暮らすことになりました。 ――旦那様が海外に単身赴任となると、諏訪さん一人で会社経営も、当時まだ小さかったお子さんの子育ても担う状況が想像できます。それでも2代目を継ぐ決断ができたのはなぜですか。 諏訪:私は長らく専業主婦をしていましたから、正直「父の会社を継ぐ」なんて夢にも思わなくて。でも亡くなった父の顔を見て、この人は自分の信念に従って進んできたんだなって思ったんです。やりたいことはすべてやり遂げた――そんな満足感に溢れた顔をしていました。田舎から出てきて会社を作って、お客様から信頼される企業に育て上げた。私も後悔しない生き方をしなきゃいけないなって、父の顔を見て強く感じました。 それに、私の心の中には「兄」が一緒に住んでいるというか。兄は6歳のときに白血病で他界しましたが、何か選択を迫られたときはいつも「お兄ちゃんだったらどんな選択をするだろう」と考えます。父が亡くなったときも、「お兄ちゃんなら絶対に継ぐだろうな」って。