『光る君へ』紫式部の父・藤原為時の生涯、越前守になるも再び無官に…官人よりも文人として認められた才能
■ 再び無官に 紫式部は長徳3年の末か4年(998)の春、越前に父・為時を残して京へ帰り、長徳4年(998)に、佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝と結婚した。 紫式部と宣孝の間には、長保元年(999)頃に賢子という女子が誕生している。 長保3年(1001)春、為時は越前守の任を終え、帰京した。為時は帰京後、再び、散位の身となっている。 為時が帰京したころから、宣孝が病を発症し、同年4月25日、死去してしまう。結婚から三年にも満たない短い期間で、紫式部は夫を失ったのだ。 紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめた時期は諸説あるが、夫・宣孝の死後からほどなくして、筆を取ったともいわれる(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。 紫式部は寛弘2年(1005)か、寛弘3年(1006)の年末ごろ、一条天皇の中宮で、道長と黒木華が演じる源倫子の娘・見上愛が演じる彰子に出仕した。 一方、為時は寛弘4年(1007)4月の内裏密宴に文人として召されたり(『御堂関白記』寛弘4年4月26日条)、寛弘6年(1009)7月の内裏庚申待の作文会(さくもん/漢詩を作る会合)の序を作ったりする(『御堂関白記』寛弘6年7月7日条)などの活動がみられる。
■ 息子・惟規に先立たれる 寛弘8年(1011)2月、為時は越後守に任じられる。為時は63歳になっていた。 為時は任地に向かったが、今回は紫式部ではなく、息子の藤原惟規がともに下向した。 ところが、惟規は旅路の途中で重い病に罹り、越後国に着くと病没したといわれる。 息子に先立たれた影響か、為時は長和3年(1014)6月、任期半ばで越後守を辞任し、帰京している。 そして、長和5年(1016)4月、三井寺(円城寺)で出家した(『小右記』長和5年5月1日条)。三井寺では為時の息子で、のちに阿闍梨となる定暹(紫式部の異母弟)が修業していた。 一説では、為時の帰京・出家は、京で紫式部が死去したためといわれる。 だが、紫式部の没年は長和3年説、長和5年説、寛仁元年(1019)年以降説、万寿2年(1025)以降説、長元4年(1031)説など諸説あり、為時の帰京・出家の理由もあきらかではない。 ■ 為時法師として 為時は出家後も重用されたようで、寛仁2年(1018)正月21日、道長の嫡男・渡邊圭祐が演じる藤原頼通の正月大饗用の四尺倭絵屏風に漢詩を献上した貴族のなかに、「為時法師」の名がみられる(『御堂関白記』、『小右記』ともに寛仁2年正月21日条)。 これを最後に、為時の動静は不明で、没年も定かでないという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。 官人としては些か不遇であった為時だが、文人としてはよい人生を送れたと信じたい。
■ 【藤原為時ゆかりの地】 ●三井寺 正式名称を「長等山園城寺」という。滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。 藤原為時は三井寺で出家を果たし、為時の息子・定暹は三井寺の阿闍梨であった。
鷹橋 忍