「家族はできたけど、僕は上島さんも亡くしちゃってるから」後輩芸人に誕生日を祝われるタイプではないが…有吉弘行(50)が“絶望”の中で出会った仲間
「『AKB共和国』から始まって『紅白歌合戦』やで。すごいよな! 有吉の40から50の駆け上がり方は」 【画像】「僕は上島さんも亡くしちゃってるから」有吉弘行と“親友であり尊敬する先輩”の上島竜兵が一緒にうつった写真を見る 今年11月21日に放送された『淳×ジュニア×有吉 40歳-50歳~10年観察~』(TBS、以下同)で、千原ジュニアは、有吉弘行の浮き沈みの激しい芸能生活を端的に表現した。 この番組は、田村淳とジュニア、有吉という3人の40歳から50歳までの10年に密着し彼らを“観察”したもの。冒頭の発言は、その中で40歳の有吉が「初めてMCやらせてもらったのが、その(=AKB共和国)前身の番組だったんで」と言ったことを受けたものだ。
再ブレイク後も消えない有吉の「諦め」
もはや説明不要だろうが、有吉はデビュー翌年の1996年、猿岩石として『進め!電波少年』(日本テレビ)に出演。ヒッチハイク旅で一大ブームを生んだ。彼らが歌う「白い雲のように」も大ヒットし、アイドル的人気となるも程なく仕事が激減。いわゆる「一発屋」の代名詞のような存在となった。 2004年には猿岩石も解散。だが、この前後から『内村プロデュース』(テレビ朝日)などで存在感を発揮し始め、2007年には『アメトーーク!』で品川祐に「おしゃべりクソ野郎」と言い放った、世にいう「おしゃクソ事変」が勃発。それをきっかけに「あだ名芸」で再ブレイクを果たした。そして、その翌年頃からAKBを始めとするアイドル番組を仕切ることが多くなっていった。ちなみに彼のMCとしての出世作『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日)が始まったのは2011年だ。 40歳(2014年)の有吉はこうも言っていた。 「俺、もうどっかで諦めたんだと思う。ある意味ちょっと諦めてるんですよね。なんか最近は虚しくなってきて(スタッフに)『どんなやつやりたいですか?』って聞かれて『何か楽しいやつやりたいですね』っつって『じゃあ、たとえば?』『いやぁ、何か昔やってた「内P」とか楽しかったなあ』とか、『淳さんとやってた「(クイズ☆)タレント名鑑」楽しかったから、あんな……』とか言うんですけど、まぁやれないじゃないですか」 「(スタッフに言うと)『ハハ』って鼻で笑われちゃう。『できないでしょ。わかってるでしょ』って。(そうすると)言うのが恥ずかしくなっちゃうんですよ。結局自分に自信がないと言うか。いまなんかMCの仕事とかボチボチやらせてもらって1~2年で。お前ごときが何を言うんだって思いがやっぱ強くて。それでも情熱がないわけじゃない。たぶん、恥ずかしいんだと思います。(略)猿岩石の思いをまだ引きずっている」 当時は情報系番組全盛でお笑い番組がいま以上に作りづらかった。そうしたこともあっての「諦め」だったのだろう。また、有吉は「もう食えなくなることはないんじゃないか?」と言われても、こう答えている。 「やっぱり1回ああいう経験してると、自分だけはって思うんですよね。逆の意味で自分だけは選ばれた人間だって思うんですよ。自分だけは消えるって思うんですよね。僕がたぶん、自分を客観的に見てたら『大丈夫ですよ』って言うと思うんですよ。そう思うとそんなことないだろうなと思うんですけど、それでもやっぱ僕は『誰かに嫌われて仕事なくなって』とか『飽きられるんだろうな』って思うんですよね」