《至極の名言に学ぶ》稲盛和夫さんが生前語ったメッセージ “運命から見放された”と絶望しながらも「前向きに明るく人生を生きていこう」と思えた理由
中学受験の失敗と、敗戦での貧乏生活
その後、鹿児島一中を実際に受験しましたが、案の定、受かりませんでした。そのため国民学校高等科で1年間、今でいう浪人生活を経験し、翌年も同じ鹿児島一中を受けましたがまた落ちてしまい、滑り止めで受けた私立鹿児島中学に入学することになったわけです。 その年、鹿児島は焼け野原となり、私の家も焼けてしまい、日本も戦争に負けてしまいました。ちまたには両親を亡くした戦災孤児があふれ、彼らは飢えに苦しんでおりました。私は幸い両親が健在で、きょうだいも誰も死ななかったものの、家はたいへん貧乏になり、戦後はどん底の生活を焼け野が原の中で送るようになりました。
世の中はなんて不公平なのか
私が中学3年生のときに、旧制中学から新制中学へと学校の制度が変わりました。私はそれまで、中学を卒業したら就職をしようと思っていました。貧乏ですし、次男坊でしたから、地元の銀行にでも勤めて、両親の生活を少しでも支えてあげたいと思っていたのです。ところが、担任の先生が「稲盛君、新制高校ができたので行きなさい」と勧めてくれ、さらには「貧乏で上の学校には行かせられない」と言う両親を説得し、高校進学への道を切り拓いてくれたのです。 ですから、高校を卒業したときには、「今度こそは就職をしよう」と思っていたのですが、そのときもまた、担任の先生から「ぜひ大学へ行くべきだ」と勧められて、大学を受験することになりました。 かつて家族や自分が結核になったことがあることから、医者になりたいと考え、大阪大学の医学部を受験しましたが、田舎の高校でそれなりに勉強はしていたものの、その程度では残念ながら入試には通りませんでした。 そのため、滑り止めで受けていた鹿児島大学に入学することになりました。当初は、もう一度翌年に大阪大学を受けようと思っていましたが、家が貧乏であったために断念し、そのまま鹿児島大学で4年間学び、工学部応用化学科を卒業しました。 就職にあたっては、家が貧乏な上に弟や妹がたくさんいることから、家計を助けるためにはいい会社に入って、いい給料をもらおうと考え、一流企業に就職しようと思っておりました。 大学の先生方もいろんな会社を紹介してくれたのですが、私が大学を卒業した昭和30年頃はちょうど就職難で、重役の親戚や知り合いでなければ採ってはくれない時代でした。私も何社も受験をしましたけれども、どこも採ってくれはしません。そのとき私は、「世の中はなんて不公平だろう」とつくづく思いました。