《至極の名言に学ぶ》稲盛和夫さんが生前語ったメッセージ “運命から見放された”と絶望しながらも「前向きに明るく人生を生きていこう」と思えた理由
人生、悪いことばかりではない
私は、京セラという会社を41年前に、私が27歳のときに作っていただきました。また16年前に、第二電電(現KDDI)という会社もつくらせていただきました。現在では、両社の従業員数は全世界で4万人を超え、売上は2兆3000億円という規模に達しています。 このようなことを話すのは、自慢話をしたいからではありません。 今もご紹介がありましたが、私は日本列島の南端鹿児島に生まれ、少年時代から大学までずっと鹿児島で育ちました。23歳で京都に出てきて就職したのですが、鹿児島弁しかしゃべることができない、典型的な地方出身の青年であったわけです。 そのようないわばどこにでもいそうな青年が、京セラのような大きな会社をつくり上げ、経営することができるようになった、その理由をお話しして元気を出してもらいたいと考え、この場に立つことを決意した次第です。 みなさんは、間違いを犯し、挫折をし、人生の途中で傷つかれたことと思いますが、その人生というものを、お釈迦さまは「諸行無常」という言葉で説いておられます。 世の中というのは決して一定のものではなく、災難に遭ったり、幸運に出会ったり、流転していくのが人生なのです。つまり、決していいことばかりは続きませんし、悪いことばかりであるはずもありません。波瀾万丈こそが人生だとお釈迦さまはおっしゃっておられます。 では、そういう私自身の人生がどのようなものであったか、また私がどんな少年だったか、包み隠さずお話ししたいと思います。
クラス二番手・三番手のガキ大将
私は、小学校に入ったとき、一人では学校に行けませんでした。 みなさんの中にもおられるだろうと思いますが、お母さん子で内弁慶だったのです。 入学式が終わったあとは、毎日学校へ一人で行くのがたまらなく嫌で、泣きわめいて家を出ていかず、1週間ぐらいは母親に一緒についていってもらったというほどの甘えん坊の泣き虫少年でした。 しかし、その少年は内弁慶なものの、やんちゃな一面も持ち合わせていました。ですから、しばらくすると環境に慣れ、遊び友達がたくさんできて、次第に学校が楽しくなってきました。すると、勉強よりも友達との遊びのほうが面白くなってきたわけです。 私の子どもの頃は戦争前で、遊び道具は何もありません。家のそばに川が流れていましたので、友達を連れてきては魚を獲ったり、戦争ごっこをしたりして、いろいろと工夫しながら遊んでおりました。 そのような遊びがたいへん面白いものですから、勉強は1年生の最初の頃に少ししただけで、あとは卒業するまでの6年間、ほとんど勉強らしい勉強をしたことはありませんでした。 両親も小学校しか出ておらず、「勉強しなさい」とは一言も言わない。それをいいことに、私は遊び呆けていたわけです。 また単に遊び呆けるだけではなく、みんなの中心でいたいと思った私は、いつの間にかガキ大将となっていました。 私の通った小学校は各学年に6組ほどあり、そのクラスごとにガキ大将がおり、私はクラスのガキ大将ではなく、クラスの二番手か三番手か、つまり中派閥のガキ大将でした。 今でも忘れませんが、集団でイジメまがいのことをしたこともありました。 6年生のときに、おとなしい友達をいじめてケガを負わせ、職員室に呼ばれて先生から頬がふくれ上がるほど殴られ、「おまえみたいな悪い奴は卒業させん」と叱られたことがありました。 「おまえは鹿児島一中を受験したいと言っているが、鹿児島一の中学校に受かるはずがない。おまえの内申書は下の下だ」とまで言われるし、母親も学校に呼ばれて、校長先生や担任の先生からたいへん叱られたようです。 私は、先生が生徒を公平に扱ってくれないということに対して常々不満を持っており、それがイジメとなったのであり、いわば私なりの正義感に基づくものであったわけです。 しかし、どのような理由があれ、私がやったことは悪いことであり、先生からたいへん叱られました。これなどは、私が子どもの頃に犯した大きな罪であるわけです。