超強運の持ち主「藤原道長」に“欠けていた”もの。「望月の欠けたることもなし」と詠んだ道長だが
間もなく最終回を迎えるNHK大河ドラマ「光る君へ」。放送をきっかけに平安時代にスポットライトがあたることになった。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第48回は栄華を極めた道長の最期について解説する。 【写真を見る】道長ゆかりの浄妙寺跡
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■道長から頼通へのスムーズなバトンタッチ 孫の敦成親王が後一条天皇として即位すると、藤原道長は念願の摂政の座に就くが、1年あまりで辞職。寛仁元(1017)年に道長の嫡男・頼通がわずか26歳と史上最年少で、摂政の座を父から引き継ぐことになった。 道長から頼通へのスムーズな承継を鑑みるに、改めて思い返されるのが、父の藤原道隆から関白の座を引き継げなかった、藤原伊周のことである。よく考えれば、道長にとって8歳年下の甥にあたる伊周が、あれだけ自分をアピールしたのも、もっともなことである。
伊周は、父の道隆が病に伏せて関白を辞職すると、その翌日に自身は内大臣でありながら「関白と同じ警護をつけてほしい」と一条天皇に直訴。実資に「前例がないことではないか。稀有だと言うべきことだ」と呆れられている。それでも父の後継者になろうと、伊周の暴走は止まらない。 伊周がさらに一条天皇の母・藤原詮子にまで働きかけたために、実資からは「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」とさらに辛らつな言葉を日記に記されることになる。
伊周がこれだけ焦ったのは、父の道隆に弟たちがいたからにほかならない。道兼と道長である。 ■弟がいなかった道長の強運 伊周が危惧したとおり、幼少期から弟の道長と親しかった詮子は、息子である一条天皇に働きかけて、伊周の関白就任を阻む。 関白の座は道隆から息子の伊周ではなく、弟の道兼に引き継がれ、道兼が数日後に病死して「七日関白」に終わると、今度は関白に準じた役職「内覧」の地位が弟の道長に与えられることになる。