超強運の持ち主「藤原道長」に“欠けていた”もの。「望月の欠けたることもなし」と詠んだ道長だが
■体調の変化を実資に打ち明けていた 長和5(1016)年5月11日の『小右記』によると、このとき51歳だった道長は、実資に自身の健康状態についてこんなふうに語ったという。 「3月の頃からしきりに水を飲むようになった。近頃は昼夜なく水を飲みたくなる。口が渇いて、脱力感がある。ただし、食欲は以前に変わらない」 (去三月より頻りに漿水を飲む。就中近日昼夜多く飲む。口渇き力無し。但し食は例より減ぜず) 症状を聞いて、ピンと来た人もいることだろう。道長は糖尿病を患っていたのではないかといわれている。
「やたらと喉が渇く」という症状が出ると、平安時代には「飲水病」、あるいは「口渇病」と呼んだ。藤原家には、現在の「糖尿病」にあたる症状を持つ人が非常に多くいた。道長が糖尿病になったのは、遺伝的な要因も大きかったことだろう。 「望月の歌」を詠んで翌年の年明けから胸病に苦しめられると、翌月の2月まで続き、3月には出家を遂げている。いったんは平癒するものの、その後もたびたび病に苦しめられた。 もはや病から逃れられないのを悟ったのだろう。出家後の道長は極楽浄土を夢見て、自邸の近くに法成寺を建立することに心血を注ぐ。
法成寺の造営にあたって、諸国の受領が奉仕したが、それでもまだ足りないと、公卿や僧侶、民衆にも大きな負担を命じたという。自分のやりたいことを強引に突き進める道長のスタンスは、身体が衰えても相変わらずだったらしい。 やがて、視力低下にも悩まされると、「眼病に苦しんだ三条天皇の祟りではないか」と噂された。糖尿病による糖尿病性白内障も発症していた可能性がある。 そのうち下痢が激しくなり、背中に大きな腫れものができる。万寿4(1027)年11月24日には、震えまで出てきた。針博士の和気相成(わけのすげしけ)はこんな見立てを行っている。
「背中の腫物が乳首や腕にまで広がり、その毒が腹中に入ったのだろう。震えているのは、頸が思う位置に定まらないからである」 (背の瘡、其の勢ひ、乳垸に及ぶ。彼の毒気、腹中に入る。振はるるは、或いは頸、事に従はざるなり) ■晩年は子どもたちに次々と先立たれた 翌25日には、法成寺の阿弥陀堂に移ると、その翌日に危篤状態に陥ったという。 12月2日には、医師の丹波忠明が背中の腫れ物に鍼を刺して膿を出すと、道長は悲痛の叫びをあげて、昏睡状態に入った。