超強運の持ち主「藤原道長」に“欠けていた”もの。「望月の欠けたることもなし」と詠んだ道長だが
伊周がのちに「長徳の変」と呼ばれる、花山院に矢を射るという前代未聞の事件を起こすのは、その後のことである。8歳年上の叔父・道長との出世争いを繰り広げるプレッシャーで、精神的に追い込まれていたのではないだろうか。伊周は失脚することになる。 亡き父の道隆にとっても、最も恐れていた展開が現実になったといえるだろう。息子の伊周を露骨に引き上げ続けた道隆に、もし弟がいなければ、すんなりと息子の伊周にその座をわたすことができたはずだ。
思えば、伊周の祖父で、道隆や道長の父である兼家もまた、兄弟の存在には苦労させられた。兄の兼通にとことん出世を邪魔されたのだ。兼通からすれば、弟の兼家が脅威でもあったのだろう。 その点、兼家にとって5男の道長は末子であり、弟がいない。そのため、何の障害もなく、息子の頼通に摂政の座を譲ることができた。何かと運に恵まれた道長らしい展開である。 息子への承継が見えてきて、これまでひた走ってきた道長もほっとしたのだろう。息子に摂政を譲る前に、浄妙寺に眠る亡き父母の兼家と時姫、そして姉の詮子の墓参りをしている(『御堂関白記』寛仁元〔1017〕年2月27日)。
兼家や時姫はもちろんのこと、道長にとっては、常にバックアップしてくれた姉の詮子への感謝も改めて伝えたのではないだろうか。頼通を内大臣に任じたのは、その翌日の2月28日のことだ。そして、3月16日に冒頭で書いたように、父の道長から頼通へと摂政の座が承継されることとなった。 とはいえ、頼通に摂政を譲ったあとも、道長は「大殿」と呼ばれながら、政治力を持ち続けている。三条天皇が寛仁元(1017)年5月9日に崩御すると、三条天皇の第1皇子・敦明親王は東宮の座から降りて、後一条天皇の弟・敦良親王が東宮となった。
さらに翌年の寛仁2(1018)年には、道長の四女にあたる威子が後一条天皇のもとに入内し、中宮となる。彰子が太皇太后、妍子が皇太后、そして威子が中宮となるという「一家三立后」を成し遂げた道長。一族の繁栄はさらに盤石なものとなった。 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」 絶頂のなか、道長がそんな和歌を残したことはよく知られている。だが、道長の体内では「欠けるものがない」どころか、大きな作用が欠如しつつあった。