J1初昇格の岡山・木村正明オーナー、スポンサー集めの茨道
アスリートでありながら、投資家としての意識を持つ「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。今回はアスリートを集めてチームを作っていく側のクラブオーナーにフォーカス。12月7日にサッカーJ1への初昇格を決めたファジアーノ岡山の運営に2006年から携わり、2018年まで代表取締役社長に就任。その後、Jリーグ専務理事を経て、2022年からオーナーとしてクラブ運営に取り組んでいる木村正明さんの第2回目です。 東京大学を卒業後、ゴールドマン・サックスで14年働き、マネージングディレクター(執行役員)まで勤め上げた木村さんがサッカークラブ経営の道に進んだのは2006年。中国リーグ(当時4部相当)に在籍していた2006~2007年は入場料収入も得られず、自らの貯金や資産運用から資金を投入するというすさまじい日々を過ごしていました。 ゴールドマン・サックス時代の知識や人脈を活用しつつ、借りられるだけお金を借りて、不動産や債券、個別株を購入。運用益を得て、毎月300万~400万円をつぎ込むというハイリスクなアクションを2年近くにわたって行っていたというのは衝撃的な出来事と言っていいでしょう。 スポンサー営業に出向くたびに、「お前が根性を見せろ」「気合を見せろ」と頻繁に言われていたため、木村さんとしては悲壮な覚悟を持って取り組むしかなかったといいます。 そんな修羅場をくぐり抜け、2007年末に日本フットボール・リーグ(JFL=当時3部相当)に昇格が決定。2008年にJFL4位となり、2009年にはJ2参入、そして2024年12月7日に初のJ1昇格を決めました。その後の木村さんの取り組みを引き続き伺いました。 ■最初はスポンサー企業が数えるほど ――ファジアーノ岡山は2008年にJFLに初参入し、4位となって1年でJ2に昇格。とんとん拍子で2カテゴリーアップを果たしました。 木村:まず2007年末に中国リーグからJFLに上がったあと、2008年にスポンサー企業が一気に200社に増えました。でも私が2006年途中に経営に関わり始めた頃は、スポンサー企業は数えるほどでした。営業をしようにも簡単には会ってもらえない。仕方ないので、夜討ち朝駆けはもちろんのこと、スポンサー企業のトップがよく行く飲み屋情報を聞きつけて、そこに先回りして行って待っているようなこともしましたね(苦笑)。 そして2008年末にJFLからJ2昇格が決まった。それはものすごくうれしかったんですけど、最終戦までに1億円を集めないといけなかったんです。というのも、Jリーグ初参入時にはJリーグ入会金の6000万円と年会費の4000万円が必要になるんです。1億円分の協賛申込書を、最終戦までにリーグ事務局にFAXする決まりでした。それを支払えないと、2009年からJ2で戦えなくなってしまう。当時の自分には危機感がいっぱいでした。 ――木村さんはどんな動きをしたのですか? 木村:2008年までにスポンサーになってくださった200社を、1カ月半で全社回ってお願いしました。最後のほうはよく事故を起こさなかったなと思うくらい運転しまくりました(苦笑)。昇格も決まってないのに何だと不機嫌になる方もいて、こちらも必死なので何とかお願いしますという感じでした。いずれにしても、Jリーグに払うお金をかき集めて、何とか参入を果たし、そこから2024年まで16シーズンをJ2で戦い続けてきたわけです。 ■買う勇気を持つしかない ――ただ、2008年というと、リーマンショックの時期ですよね。自ら借金をして運用をしてきた木村さんも何らかのダメージを受けたのではないですか? 木村:2008年の後半はJリーグ参入のためにあくせく動き、チームも上がれるか上がれないかという状況だったので、寝る暇のないような生活をしていました。営業のために毎晩飲みに行く状況だから、市況も見ていられない。「だったら、不動産を買って寝かせるしかないな」と考えていました。 そこにリーマンショックが重なった。すでに買い付けていた債券や個別株はドーンと落ちましたけど、塩漬けにするしかない。タイムマシンがあれば、別のタイミングで売り買いしていましたけどね(笑)。 実際、リーマンショックで価格が下落した不動産でいくつか魅力的なオファーをもらっていたんですけど、忙しすぎて契約書を見ている時間もなかった。2009年からは昇格して怒涛のうちに時が過ぎ、買えずじまいでした。常にクラブにはお金がいるので、後から「ああしておけばよかった」と後悔しないように、思い切って買うしかない。それは投資の鉄則です。 ――確かに昨今の為替レートを見ても、今年1年間で140~160円と大きく変動していますよね。「一時は130円台にいくのではないか」という期待もあって、それを待っていてドルを買いそびれたという話も聞きます。 木村:そうなんです。「140円の時にドル定期をたくさん買っておくべきだった」と言っても遅い。買う勇気を持つことしかないんです。 みなさんもそうだと思うんですけど、私も平日は多忙なので、毎日はチェックできない。週末にまとめて市況や経済指標を自分なりに判断して、まとめて買い付けるようにしています。その週にいろいろ動きがあっても動じない。それが大切ですね。 ――株価や為替レートの上下動が激しい時はどうしても一喜一憂しがちですよね。 木村:それはわかります。私の経験から言うと、投資をしていて何がいちばん悔しいかというと、長期的に見て下がることよりも、上がった時に買い損ねたと感じること。インカム狙いの投資でも悔しいんですよね。それはゴールドマンの仲間たちも同意しています。 買った個別株が下がるのは、もう我慢するしかないし、10年くらいかかるかもしれないけど、「いずれは戻る」と前向きに考えて、長丁場で待つしかない。今年の暴落も結局は戻りましたよね。だからこそ、私は「買い損ねた」とならないように行動を起こしています。 週末に分析して「これはイケる」と思ったら、成り行きでも必ず買う。迷っていたらダメなんです。私も「どうしたもんか」と考えるのが日常茶飯事ですけど、弱い自分と毎週戦っているんですよ。 ■リスペクトされる集団に ――なるほど。その後、岡山はJ2に長く在籍。監督も当時の手塚聡さん(元日本代表FW)から、影山雅永さん(現日本サッカー協会技術委員長)、長澤徹さん(現大宮アルディージャ監督)、有馬賢二さん(現サンフレッチェ広島コーチ)、現在の木山隆之監督と5人が指揮を執り、魅力的なチームが作られました。特にJ1昇格プレーオフ決勝まで行った2016年は本当にすばらしかったですね。そういった中、岡山は茶髪禁止や大卒選手中心の編成など「品行方正なクラブ」というイメージも浸透しました。 木村:茶髪禁止は今はもうなくなったんですが、最初に始まったのは、手塚さんが率いていた2007年なんです。最初の頃、「サッカー選手はちゃらちゃらしてるから嫌いだ」と数多く言われました。手塚さんが、「あるクラブの黎明期に茶髪禁止にしたら結構受け入れられた」と仰り、そこからスタートしたんです。 加えて「絶対に最後まで諦めない」「笛が鳴るまで走り切る」「人間性の優れた選手を集める」という理想像も追求するようになりました。手塚さんからバトンタッチした影山監督、当時の池上三六GMと3人で、「スポーツ以上の存在になるんだ」とよく話していましたけど、岡山の人たちに受け入れられ、リスペクトされるような集団にしていきたいという思いはありました。 それがその後の監督や選手たちにも引き継がれた。岡山の選手は少し真面目すぎるところがあるのかもしれませんけど、J2に在籍した16年間で地域に根付き、1つの現象になっていった。お客様も平均で1万人集まるようになってきて、着実に前進していると捉えています。 経営者であり投資家の木村さんの全身全霊を懸けた取り組みがあって、岡山はJリーグで確固たる基盤を構築し、多くの人に認められるクラブに成長しました。毎週末の債券や個別株の買い付けというルーティンも継続しながら、クラブ経営を支えていくというのは大変なことですが、それが生きるエネルギーになっているのは確かでしょう。 そんな木村さんも岡山の経営から完全に離れた時期がありました。それはJリーグの専務理事を務めていた2018年3月~2022年3月。コロナ禍真っ只中でした。その頃の活動や現在に至るまでの流れを次回はじっくりとお話しいただきます。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子