西南戦争機に本格導入された警察官の武道 逮捕術など独自発展も 警視庁150年
警視庁150年の歴史を貫き、警察官を鍛える柱となってきたのが柔道や剣道といった武道・武術だ。西南戦争での警視庁抜刀隊の活躍をきっかけに、初代大警視(警視総監)の川路利良の方針で剣術を教えることになった。先の大戦の後は一時衰退したが、時代に合わせ、合気道を取り入れたり、逮捕術といった独自の術科も誕生したりした。都民の安全のため、警察官は日々稽古に励んでいる。 「基本を大事に。気合を込めろ」。師範がげきを飛ばし、警察官らが大きな声で応えて動作に移る。三田署(港区)の道場で行われていた約1時間の朝稽古。道場を走って体を温めてから、柔道と剣道に分かれて次々と組み合いや打ち合いが始まる。技の指導だけでなく、姿勢や精神面に対してもげきが飛ぶ。警視庁の担当者は「とっさの状況でも犯人と対峙(たいじ)し制圧逮捕し得る気力と気迫を重点に置いている」と話す。 ■体力強化を重視 警視庁で日本古来の武術が取り入れられた時期は正確には分かっていない。警視庁の設置前から指導が行われていたと示す書もある。 本格的に導入するきっかけとなったのは明治10年の西南戦争。最大の激戦とも言われた田原(たばる)坂の戦いで、川路らで選抜された100人規模の「警視庁抜刀隊」が大活躍。明治維新で衰退をたどっていた剣術(撃刀)が再評価された。 川路は訓示で「有事の際に一人前以上の腕力があって凶徒を制圧し得てこそ国民信頼の警察官である」と述べ、武術での体力強化を重視。現在の師範にあたる剣術の指導者「剣術世話係」を12年に採用。16年に柔術の指導者「柔術世話係」を採用し、警視庁での武術が盛んになった。 世話係によって流派が異なっていたことから、指導上の統一を目的として柔術と剣術で「警視流居合」などの「形(かた)」が取り入れられた。技量に応じた指導や各流派の技を選んだものだった。 ■占領下に逮捕術 先の大戦が始まると、国全体が武道で士気を高めるように。昭和20年、戦争が終わると、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策により軍事色を消す目的で武道が禁止され、警察学校での授業や課外活動が行えなくなった。 柔道については治安維持の観点から必要不可欠との申請を行い、比較的早く復活を遂げた。ただ、戦争に加担したとみなされたことで剣道は占領が終了する27年ごろまでできない状態が続いた。