なぜ井上尚弥対ドネアのWBSS決勝は激闘・名勝負になったのか?「クリンチに逃げることまで用意していた」
8月末に井上尚弥の著書「勝ちスイッチ」の製作の手伝いの話が筆者に持ち込まれ、何度か打ち合わせをした。発売予定日はドネア戦の1週間前。勝てば万々歳。負ければとんだ赤っ恥になる。 「時間がないけど大丈夫なの? 自信があるってこと?」 そう聞くと井上は真剣な表情でクビを横に振った。 「怖いですよ。今は。明日、ドネアと試合しろ!と言われたら無理です。勝てる自信なんかまったくありません。負けるかもしれません」 それが、モンスターと呼ばれる男の素の姿だった。 「確かに秒殺してきました。でも、試合が終わると、その自信はゼロにリセットされるんです。試合が決まって、もう一回、練習と準備で自信を作る。それができたら、やってきたことが出せるという楽しみの気持ちが出てくる。楽しみたいと心底言える気持ちに試合前にできるかどうか」 今は自信はない。だが、準備することへの自信がある。 大橋会長がドネア対策にフィリピンから2人のパートナーを呼び、ロマチェンコのパートナーの東京五輪のホープまで招いて万全を期した。マスも含め計140ラウンドのスパーの中でクリンチを使うケースまでシミュレーションしていた。実は、この日、多用する始末になったクリンチまで練習していたのだ。 「これまで試合でやったことないですけどね」 相手は5階級制覇王者である。オッズでは、井上尚弥が圧倒的に支持され、死角は見つからなかったが、「リング上では何が起こるかわからない」との覚悟があった。 加えて試合前には敗戦をイメージして「白日夢」を見る。 井上はドネアの左フックを浴びて無様にキャンバスに横たわる姿を想像していたのだろう。負傷を乗り越え、どちらに勇気があるかを試された試合が名勝負になったのは、井上が、どこかで、こうなる可能性を想定し準備していたからに他ならない。 井上尚弥は「この試合の向こうにまだ見ぬ景色がある」と語ってきた。 試合後、リング上で、次の景色は何かと聞かれ「この戦いの前に弟が負けています。バンタム級のWBC。自分は拓真の仇を取りたい。統一戦をやりたい」と、拓真との統一戦を判定で制したウーバーリとの統一戦を熱望した。 「タイミングもある。自分もカッとなって言ってしまった」 それでも、ウーバーリが、「ぜひやりたい。一番強いもの同士が戦うべき。ルイス・ネリはベルトを持っていないんだから」と、発言したことを伝え聞き「OK出たんですか? 実現に向かうようにいきたいですよね」と目を輝かせた。 トップランク社のディボフ社長が、試合後の記者会見にサプライズ登場。井上尚弥と複数年契約を結んだことを発表した。次戦、その次と2試合続けて米国で防衛戦を行い、来年末は日本で試合を行う計画だという。 「我々が、過去にプロモートしてきたモハメッド・アリ、シュガー・レイ・レナード、オスカー・デラホーヤ、フロイド・メイウエザー、ワシル・ロマチェンコのようなスターに井上尚弥をしたいということだ」 ディボフ社長は、綺羅星のごとくビッグネームを羅列してみせた。 米国マーケットではまだ名の通っていないウーバーリが、井上の米国本格デビューの相手に抜擢されるのは非現実的かもしれない。しかもウーバーリには、23日に行われるエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)対ルイス・ネリ(メキシコ)の勝者との指名試合が義務づけられている。だが、井上には、WBSSを優勝したことでWBC世界バンタム級ダイヤモンド王座のベルトが与えられた。WBCのベルト保持者であればウーバーリ戦の可能性はなくない。 2020年。井上尚弥は軽量級の常識を覆し世界へと羽ばたく。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)