なぜ井上尚弥対ドネアのWBSS決勝は激闘・名勝負になったのか?「クリンチに逃げることまで用意していた」
「目をカットするのは初めての経験で、正直、ドネアが2人に見えた。最後まで目がぼやけて見えなかった」 アクシデントに見舞われたのは2ラウンドの終わり。ドネアの左を警戒していたが、「フェイントを入れられ、ボディにくると思って完全にいかれた」(井上)と、至近距離から技ありの一撃を右目に受け、血しぶきが散った。 プロアマを通じて初めてのカット。 「1ラウンドはうまくいき過ぎるくらいうまくいった。ブロッキングで(ドネアのパンチは)なんとかなると思っていたが、あれですべてが狂った」 流血だけならまだよかった。 「それから二重に見える時間が続いた」という。 いわゆるボクシング界でダブルビジョンと言われる症状だ。 テレビ解説をした村田諒太は、「目に傷がいったのかも。そうなると、ラウンドが過ぎても回復することはない」と言う。 「勝利のバトンを渡す」と約束していた拓真が、最終ラウンドに奇跡を起こしかけながらも完敗した。4ラウンドに左フックでダウンを奪われ、8ラウンドが終わった時点での公開採点が大差の0-3だったことを知ると、井上尚弥は、控室のテレビを切らせた。 「しんどいものがあった。アップに集中できなかった」 判定負けを見届け控室に帰ってきた日本スーパーライト級王者である従兄の浩樹が号泣した。 「泣いてんじゃねえ。おまえ、向こうにいっとけ!」 真吾トレーナーが、その空気を嫌って部屋から出させた。 だが、井上尚弥は「複雑な気持ちのままリングに上がった」という。 全身にアンテナを張り巡らせ力量を察知し反応する能力にたけている井上がドネアのフェイントに簡単に引っかかった伏線には、切り替えているようで、実は、切り替えられていなかった不安定なメンタルがあったのかもしれない。 井上尚弥はいつもの井上尚弥ではなくなった。右のガードを切った右目を覆うように高く上げ、右ストレート、左右のボディなど、ほとんどのパンチを封印せざるを得なくなった。プレスをかける攻守一体型のボクシングはできず、リスクのない左を中心に「守備」に意識を置く戦いしか選択できなかった。 ドネアのまるで日本刀のような左フックへの恐怖心である。 「右目が見えなかったから、右ストレートを不用意に打てない。左フックを当てられる。それしか選択肢がなかった」 ドネアが逆にプレッシャーをかけてきた。3ラウンドには右ストレートを浴び鼻血を噴き出した。ドネアは臆せず前へ出て、カウンター狙いだけでなく、ワンツーやボディにまでパンチを散らしてきた。 それでも井上尚弥は、5ラウンドに右ストレートでドネアの右膝をガクンと折らせた。さらに追い詰めてゴング終了間際にも右を打ち込んだ。だが、重心の位置が悪いので体重が乗らない。そしてドネアも耐えた。 6ラウンドも井上のペースだったが、このラウンドを終わったところで、真吾トレーナーにこう尋ねた。 「ポイント取っているかな?」 「取っていると思う」 「右目が見えず右が打てないんでポイントアウト狙いでいくよ」 真吾トレーナーは、「初めてのカットでやりたいことができずパニックになったところもあったが、本当の意味での冷静さは失っていなかった」と振り返る。