二十歳のとき、何をしていたか?/三宅裕司 周囲の大人たちに歯向かいながら、 都会的なかっこいい笑いを目指して、〝喜劇役者〟になるまで。
ガールフレンドと破局し、 部活で学園祭のスターに。
〝喜劇役者〟という言葉が物珍しくなって久しい。かつて〝comedian〟の活動の場は演劇や映画であり、その日本語訳こそが喜劇役者だった。しかし、今ではTVバラエティを主戦場とする〝お笑い芸人〟を指す言葉になった感がある。そんな中、喜劇役者であることにこだわり続けているのが、〝ミュージカル・アクション・コメディー〟を旗印に掲げる劇団スーパー・エキセントリック・シアターの主宰者、三宅裕司さんだ。 【取材メモ】三宅さんは神保町で生まれ育った生粋のシティボーイ。かと思いきや、本人は「東京の田舎もんなんですよ」と笑う。 8mm映画作りが趣味の父と日本舞踊を教えていた母のもとで育ち、明治大学付属高校在学中はバンドと落語に明け暮れたというから、この道を歩んだのは必然だったと言える。しかし、エスカレーター式に進学した明治大学で選んだのは経営学部。明治といえば、文学部演劇専攻というぴったりな進学先があるというのに、なぜ? 「もちろん、視野になかったわけじゃありません。だけど、高3のときに今の女房と付き合うことになり、『あれ、この人と結婚するんじゃないか?』なんて盛り上がっていたんです。それで就職率のいい経営学部に決めたんですが、大学に入る寸前に別れてしまって。大学生活は彼女と楽しくすごそうと思っていたのに、詐欺ですよこれは(笑)」 結果、「やることがなくなっちゃった」という三宅さんは、落語研究会とダンス音楽研究会での活動に勉強そっちのけで打ち込み、学園祭のスターになっていく。であるからして、落研の後輩たちは卒業したら噺家に弟子入りするもんだと思っていたそうだが、三宅さん自身が目指すと決意したのは喜劇役者だった。 「落語は上に年寄りがいっぱいいるから、そこで一からやるのは大変だろうなと。それよりも、小さい頃から憧れていたクレイジーキャッツみたいに、音楽と融合した笑いをやりたいなと思いまして。それが僕の考える都会的なかっこよさでもありましたから。幸い、お袋は芸事に理解があったので、『親族の中に1人くらいお前みたいな馬鹿がいてもいいだろう』と許してくれました。それで卒業後は母の知り合いが講師を務めていた、市ヶ谷にある日本テレビタレント学院に入学することになったんです。その知り合いっていうのは、サイコロ賭博の仕草を教えていたんですけど(笑)」 しかし、入ったはいいが、大学を出してもらったのに好き勝手やっている身の上ゆえ、もう親のスネはかじれない。どうしたものかと思っていたとき、「バイトしないか」と声をかけてくれたのが、日本テレビの子会社で、学院を経営していた読売映音だ。いわく、「明治の経営学部を出ているんだからいいだろうと思われたんです(笑)」。 「最初の頃は、遠洋漁業の船に売るため、日テレの番組のマザーテープをひたすらダビングするという仕事をしていました。録画中に見た、コント55号の番組とかはかなり勉強になりましたね。ときどきマザーテープを消しちゃうなんていう失態も演じましたけど(笑)。昼休みはよく日テレの7階の喫茶室でお茶をしていたんですが、それがすごく楽しみでね。サラリーマンのように昼休みにほっとひと息入れるという経験ができたのも、のちに役者をやるようになってから役立っている気がしますね」 では、本分であるはずの学院のほうはどうなったかといえば、これは生徒が若い人ばかりで馴染めず、半年足らずで辞めてしまったという。しかし、時同じくして、旧郵政省が団地限定ケーブルテレビの実験放送を多摩ニュータウンで行うにあたり、読売映音も参加することになり、三宅さんはなんと司会者に抜擢されることになる。 「いろいろやりましたが、忘れられないのは多摩市長との対談です。ディレクターと一緒に綿密な台本を作って臨みました。ところが、この多摩市長、やけに頭の回転が速いんですよ。1時間番組なのに40分で用意していたすべての質問を使い果たしてしまったんです。あと20分どうする!? だって、生放送ですよ! 『えーっと、この件に関しては……さっき聞きましたよねぇ……』みたいな感じですよ(笑)。そのあとどうしたか記憶にないですけど」