二十歳のとき、何をしていたか?/三宅裕司 周囲の大人たちに歯向かいながら、 都会的なかっこいい笑いを目指して、〝喜劇役者〟になるまで。
自分の劇団を旗揚げしたのは やりたい笑いを追求するため。
「でも、これはいい経験でしたね」と振り返る実験放送が終わったのは1年後のこと。と同時に、三宅さんは読売映音を辞めることを決意する。「社員にならないかと誘われましたが、やっぱり喜劇役者を諦められなかったんですね」。折よく、東京新喜劇という劇団が旗揚げされると聞きつけ入団するが、一度も公演をやらずに解散してしまった。 「その後は、ある照明会社の社長さんと意気投合して少年探偵団というコントグループを作りました。そして新宿アルタのウエイター、ウエイトレスがステージでショーを披露する『パイガーデン』というお店で少年探偵団旗揚げライブをやることになり、東京中の知り合いを呼んで満席にしました。しかし、ステージに出ていった瞬間、『あ、これはウケないぞ』と気づいてしまったんです(笑)。稽古中から思うことはあったんですが、それが確信に変わってしまいました。本番で気づくっていうのはつらいですよ。終わった後、みんなが楽屋に挨拶に来てくれたんですが、恥ずかしくて外に出られませんでしたから。それで少年探偵団から脱退することになるわけですが、そのときに照明の方に言われたんですよね。『三宅さんはやりたい笑いが決まっているんだから、自分でやったほうがいいですよ』って」 三宅さんがその言葉を痛感することになるのは、再結成した東京新喜劇(諸事情あり名前は大江戸新喜劇に変更された)に入ったときだった。 「主宰者の考える笑いが、当時の僕には古くさく感じられたんですよね。モンティ・パイソンみたいな知的な笑いに惹かれていたときで、『喜劇に人情なんていらねぇ』と突っ張っていましたから。それで15人の団員を引き連れて辞めて、池袋の喫茶店でスーパー・エキセントリック・シアターを結成したのが、28歳のとき。当初は異種交配をテーマにした『コリゴリ博士の華麗なる冒険』(1981年上演)とか、人類に警鐘を鳴らすようなブラックな笑いを追求していましたね。だけど、40代に入った頃かな、急に人情喜劇のよさをわかるようになったんですよ。ショックでしたね。20代の頃あれほど否定していたのに、それは間違いだったと気づいてしまったわけですから。それから自分なりの人情喜劇を考え始めて今に至ります。だから今、突っ張っている若い人がいるなら、変える必要はないんじゃないですか。そのうち正しかったかどうかわかる日が来るはずなので。間違いだとわかった場合は、ショックを受けると思いますが(笑)」