【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(1)
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後、自力脱出したり、残された人たちは旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太経由で日本本土に送還させられています。 それから70年近くの日々が過ぎましたが、元島民はどんな歳月を過ごしてきたのでしょう。今も忘れられない故郷の生活や島への思いを語ってもらいました。 ---------- 河田弘登志さん(82)=北海道根室市=は歯舞群島のひとつ、多楽島で終戦まで過ごし、現在、元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)副理事長を務めています。当時の島の生活を振り返りました。
祖父も両親も。島民の多くが富山出身
――出身は、歯舞群島・多楽島ですか。 多楽で生まれて、多楽で育って、11歳までおりました。 ――ルーツをたどると富山ですね。 私の祖父が富山で生まれてますから。そして、16、7歳くらいで、この根室の方に来てるんですね。北海道に行ったら何かいいことあると思って。当時の北海道、函館と札幌と根室は早く開けて、県庁あった時代もありますから、三県時代でね。そのうちに、根室からちょっと見たら、小さな島がある。そっちに行ったらいいじゃないかということで渡りだしたと思うんですよ。北方領土の周辺って、世界の三大漁場と言われるぐらい漁業資源の多いところですから。中でもこの歯舞群島周辺というのは昆布の豊富なところです。昆布漁ですから、そんなに資本かけなくても仕事はできる、そういうところですよね。 ――では、祖父の代も最初は昆布漁から始められたのですね。 ずっと昆布漁です。父親も富山で生まれたんですけれども、小さいうちに父親について。母親が早く亡くなったもんですから、父親について島に渡ったと。 ――では、父親の代も、物心ついたときには島にいたっていうことですね。 そうです。偶然にも、うちの母方のほうも富山なんです。両親とも、どっちも富山なんですよ。富山には、父親が生存してた時代はいとこがいたんですね。亡くなった当時も、私とやりとりしてたんですけど、代が変わってきますと、だんだんわかんなくなってね。遠くなってしまって。私も、去年も2度行ってますし、何回か富山行ってるんですけれども、今、富山でお付き合いしているのは、母方の関係ですね。 ――島には結構、富山出身の方が多かったですか。 多いです。偶然にも私の家内のほうも富山なんです。島が、隣の志発なんですよ。こっち(根室)来て、結婚する間際に、たまたま「富山だったんです」、と。それがまた、両親とも富山の人です。それくらい、富山の人が多いということですよ。