【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(1)
活動参加できる元島民がだんだん減っている
――活動でいろんな元島民の方々を束ねる、連絡することも多いと思いますが、どのようにまとまっていますか。 択捉もそうですけども、島ごとに会を持ってるんですよ。島の会と称しまして。私は多楽ですから、多楽会へ設立した当時から入ってまして今、会長やらせていただいてるもんですから。ただ、相当、人数は少なくなってきました。どこの島もそうですよね。というのは、だんだん亡くなっていくでしょう。その割合で若い人が入ってくるかっていうと、これも入ってこないですしね。 ――2世、3世でも活動に参加することはできますか。 大歓迎ですね。ですけども、根室にとどまる人が少なくなって。よそへ出ていくということですよね。 ――この問題に対して縁遠くなってしまう。 それもこれも、何が原因かっていうと、やっぱり北方領土がこういうふうになってることが一つ原因になる。働く場所がやっぱりない。
本当に忙しかった昆布の仕事
――北海道本島へ帰ってきて、漁業の活動できる範囲が大きい問題ですね。 そうですね。私は、ここ(多楽島)で生まれて、ここで育って、昆布をとって、生活はいいほうだったと思うんですよ、比較的。離れてますから電気がないですけど、ランプ生活っていうのは、この辺(根室)でもそうだったですから。当時は半年間、5月から今ごろまでは、本当に忙しく働いたもんですよ、昆布漁の最盛期には。大人も子供もそう。小さいとき、学校行くころになったら、それなりの仕事があるんです。学年が上がってくるにしたがって、大人並みの仕事をさせられるようになるんですよ。 ――昆布を乾かすとか。 そうそう。盛んな時は若い人も使ってとか、あるいは陸(おか)の仕事やる人も使ってたんですけども、私が覚えあるようなころになってきましたら、だんだん戦争が始まってきまして、若い人も戦地行くとかになったんで。早い時ときたら、父親たちが朝の2時、3時に起きるんですよ。起きて、そして、昆布を採りに行く前に、前日に採った昆布を浜に広げておく。それを、子供たちも同じくらいに起きて手伝うんですね。これはもう手間のかかる仕事だ。 ――子供でも、人手が多いほうがよかった。 ええ。そういうことをできない子供でもやる仕事がある。それはどういうことかっていうと、前日に昆布を採ってきて浜に積み上げてあるものに、今度、むしろを掛けてあるでしょ。そういうものをはがしたら、それを浜の端のほうへ持ってって広げて干すとか。それから、昆布を束ねている縄を干すとか。少し大きくなってくると、昆布についてる根を切るとか、いろんなことできるんです。 ――では小学校低学年でも。 できる仕事。だんだん学年が大きくなってくると、今度は乾燥した昆布を束ねて倉庫に入れる、そういう仕事も出てきます。自動車とか、そういうものないですから、せいぜい馬、馬車を使う。ですけど、そういうものは馬車かけて、馬で積んでしまうようなことしなくて、担いで上がるんですよ。担いでしまう。そうすると、もう人手で担ぐから。 ――馬は島に多かったですか。 島には多かったですね。私のうちにも終戦の間際までいました。仕事の関係もいろいろあって、馬は処分しましたけど、大抵いましたよ。馬を飼ってないうちっていうのは少なかったですよね。