【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(1)
240人いた多楽の小学校
――当時の家族構成、兄弟は何人ぐらいいましたか。 島にいた当時の兄弟は5人ですね。私が長男で、あと、下に弟か妹もいまして。最終的には7人兄弟になりましたけどね。戦後、一番多いときの家族は10人家族になったのかね。 ――物心ついたころは、祖父母健在だった。 おばあさんは、顔見てないですね。父親がまだ小さいころに亡くなってるんで、写真が1枚くらい残ってたのかな。ただ、そういうことがあったんで、祖父は小さいころから面倒見て、それきり再婚してませんから、父親をずっと育ててきたようですね。育てながら漁をやってたと。 ――では家族は、両親、兄弟と祖父の10人だったということですか。 そういうこと。戦後になって10人家族に、戦後2人増えてますからね。 ――終戦のときには小学5年生ですね。 そうです。学校生活は覚えております。 ――さきほど校舎の写真を見て、ここだ、と話していました。 校舎はもう変わりませんから。だんだん生徒が増えてきて、職員室を狭くして、教室にしたり、つないだりして使ってたのは記憶あるんですよ。こんな小さな島ですけども生徒数が240人いたんですよ。39校、北方領土に学校があったんですけれども、一番生徒数が多いです、240人だとしたら。 ――それだけ島全体が潤っていたということですか。 そうですね、あの地形。地図見るとわかるように、ほかの島と違って、切れ間ってないでしょ、まばらになってんの。あと、全部うちが隙間なしに、続いてんです。特にこの辺からカンバライソっていう、私たちがいたとこから、等間隔でうちが建ってましたから。 ――島民のほとんど昆布の仕事ですか。 そうですね。昆布以外の仕事やってた人は、学校の先生であるとか、お寺のお坊さんであるとか、特殊な人が何人かいたぐらいで、もう全部、昆布採って生活してましたね。 ――朝は昆布手伝って、学校帰ってからも手伝いですか。 そうですね、昆布手伝いしないで学校に、今のような形で学校通ったっていう人ほとんどいないのでないですか。猫の手も借りたいぐらいですから。昭和16年、国民学校になって。当時は小学校って言わないで国民学校初等科ですよ、初等科1年生ってね。だんだん太平洋戦争も激しくなってくると、男の若い先生が戦地行ってしまう。で、女の先生とかが多くなってくるとかね。ですけど、今でしたら、240人いたら、先生の数は結構いるんですけれど、1つの教室に、1・2年生と入るんですけど、そうすると60人くらいになるのよ。ですから、教室は4つよりなかったですよね。 当時は、島だけでなくて、小さな学校だったら、どこでもそうでなかったかと思うんですよね。1年生と2年生、3年生と4年生というふうに、組んで。もっと小さいとこだったら、6年生までいても、先生が1人だっていうところもあったようですよ。 ――先生も大変ですね。 学校も1つよりないから、全部ここへ集まってくるわけですよね。1年生から、今の中学の、高等科1年、2年ってありましたけど、みんなつながっていますから、必ず、大きい生徒は小さい子の面倒見る。冬になると吹雪くでしょう。学校の行き帰りでも、必ず上級生が前になって、間に小さい生徒を入れて、また大きい生徒が後ろについて、全部一列。そして、前歩く人は雪を踏み固めていくというふうにして通ったりしました。それから、学校休むとかあるでしょう。風邪ひいたとか、腹が痛いとかって。今でしたら個々に電話かけて、学校と連絡とれますよね。当時、そういうことできませんから、必ず、うちの前通った生徒、上級生にでもお願いするとか、そういうので連絡とると。