なぜ日本人はハイデガーをこんなにも「偏愛」するのか
大乗仏教と極めて似た構造
このように『存在と時間』は何とも行き当たりばったりのやり方で書かれ、諸般の事情の巡り合わせからたまたま今のような形で刊行されたにすぎない書物である。そうだとすると、こうした不完全な書物に対して、日本人はなぜこれほどまでに強い関心を寄せてきたのだろうか。 ハイデガーの哲学的な出発点は、キリスト教の宗教的経験を神や来世などといった超越的な存在に依拠せずに意識内在的に記述することにあった。そのため『存在と時間』で詳しく論じられる本来性/非本来性という人間の二種の存在様態も、宗教的な真正さと非真正さという意味合いを色濃く残している。 しかしハイデガーは『存在と時間』を執筆する過程で、本来性と非本来性が「存在」理解のあり方に基づくことを明確に意識するようになった。 すなわち本来性とは、何かが「ある」という事態を他の事物との関係性のうちでの生成変化の生起と理解し、そうしたものとして物事をあるがままに「あらしめる」態度を意味する。それに対して、非本来性は何かが「ある」という事態を、主体がその「何か」を実体として対象化することと同一視する態度である。 このように実存の本来性は「ある」ことを他の事物との関係性において捉える存在理解に帰着させられるが、こうした立場は悟りという宗教的覚醒の本質を「空」の観取に見る大乗仏教と極めて似た構造をもっている。 ハイデガーがキリスト教の宗教性の根源を追求したところ、期せずして仏教の空や無我の教え、より身近には日本人の「道」の思想にも通じるものを見出し、しかもそれが西洋の理性主義的伝統に対する明確な批判として遂行されている点に、日本人がハイデガーの哲学に親しみを感じる理由があるのではないか。 『存在と時間』はちょうど90年前に刊行されて以来、日本人にとってわかったようでわからない、つねに気になる存在であり続けてきた。『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)で私はこのもやを何とか晴らそうと試みた。 そして同書の執筆を進める中で、本来性/非本来性や「存在の問い」の意味が少しずつ明確になるにつれ、日本人があれほどまでにハイデガーに愛着を示してきたのも、しかるべき理由があってのことだと思うようになった。 *
轟 孝夫(防衛大学校教授)
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