東日本大震災のボランティア志願者へのメッセージ(フィールドライフ2011年春号掲載)
なにもかもが破壊されていた。だからすべてを自分で作った。
この夜、僕は区役所の前にある小さな公園にテントを張った。街灯もなく、あたりは真っ暗だ。消防署と警察にひっきりなしに緊急車両が出入りし、パトライトの赤い光が焼け野原を不気味に照らした。 公園には何張りかテントが立ち、落ち着かない様子の若者がうろついていた。どうやらボランティア志願の若者のようだった。みんな怯えた目をしていた。そりゃそうだ。こんな戦場みたいなところに来たのはきっと生まれて始めてだろう。 意を決して声をかけるとみんなすぐに集まってきた。年齢は20代前半で、どうやら僕が一番年上のようだった。焚き火を囲んでお互い自己紹介をする。彼らは『ピースボート』という国際交流NGOと『SVA』という仏教系ボランティア団体と『JHP』というカンボジアで学校を作っている会のメンバーだった。 みんなそれぞれの団体の先発隊としてやってきたが、何から始めていいのかわからず、途方に暮れていた。被災地の現実はあまりにむごたらしく、積み上げられた問題はあまりに大きかったからだ。 とりあえず僕らは翌日から一緒に行動することにした。そして区から頼まれたとおり、まずはボランティアをするための「しくみ作り」を始めることにした。僕は拾った段ボールにマジックで『長田ボランティアルーム』と書いて、庁舎内の会議室の扉に張った。 まず最初に始めたのは情報収集だ。僕は災害対策本部から避難所一覧と区内の詳しい地図を貰うと、みんなで手分けしてそれぞれの避難所へ出かけ、いま必要とされる物資やニーズを細かく聞いて回った。 また、当時区役所の地下倉庫には続々と支援物資が運び込まれていたが、マスコミ報道の通り仕分け作業の人手が圧倒的に足りず、あまりうまく活用されていないようだった。そこで倉庫には専従の係を置き、仕分けと在庫整理を徹底した。 このロジスティック隊のリーダーには地元の元お坊さんが名乗りを上げてくれた。彼は地元の若者や顔見知りの被災者をうまく動員し、物資の動線を徐々に整えはじめた。 何日かすると長田のボランティアたちは少しずつ組織化され、働くしくみが出来上がってきた。 この時僕らのシステムの核にあったのは「リーダーミーティング」と呼ばれる毎朝の会議だ。毎朝庁舎内のボランティアルームに各団体やグループのリーダーが集まり、仕事の分配をするのだ。 みんなが集めて回った避難所情報やニーズは朝のうちにすべて集約し、共有する。同時に区や社会福祉協議会に寄せられた被災者からの要望もここで俎上にあげた。 寄せられるニーズはさまざまだった。倒壊家屋の片付け、トイレ掃除、炊き出し、猫の世話、散髪、話し相手……。そういったあらゆる案件を僕はすべてカード化することにした。 たとえばこうだ。 「本日11時。蓮池小避難所のオオタマサヨさん(71歳女性)を中央区の神戸大病院までお届け。車椅子と軽バンが必要。人員2名。迎えはご家族が行きますので不要」。 そしてミーティングで僕がこのカードを市場の競り人のように高く掲げて読み上げ、対応可能な団体の落札(? )を促すのだ。落札したリーダーはカードを自分のグループに持ち帰り、自己完結で処理をする。責任の所在と指揮権ははその団体にある。 もちろん何グループかで協働することもある。朝のミーティングでは「ウチの物資に車椅子あるよ」「午前中ならクルマ出せるぜ」「俺は地元だから抜け道知ってる」というように、みんなで智恵を出し合った。 基本的にペンディングや「案件の持ち帰り」は許さなかった。災害時はスピードが命だ。すべてを即断・即決し、解決作が見えたらすぐにリーダーたちに動いて貰った。 いっぽう朝の段階で引き取り手のなかったカードは、ボランティア掲示板に貼りした。そうしておけばその日に被災地入りしたばかりの個人ボランティアにも「今ここで必要とされているモノ・コトは何か」ということがはっきりわかる。 これはとても重要だ。個人でやってきた一般人には、誰がボランティアで誰が地元民なのか、誰が情報をもっていて、誰が決定しているのか、自分はどこで何の役に立てるのか、それがまったくわからない。 でもこうして明文化して張り出してあれば、自分のやれることを自主的に見つけられる。そしてもし仕事が見つかったら、ピンナップされたカードを外し、掲示板日直に「わたし、これやります」と言えばいいのだ。その後に必要なモノの在処や補足は日直が教えてくれる。そういうしくみだった。 ボランティアにはさまざまな職種、技能、経験を持つ人がやってきたから、どんな難問でもたいてい誰かがなにかしらの解決策を持っていた。 いっぽう案件が終了したカードは、具体的な解決方法と結果を書き込み、ボランティアルームに戻すように徹底した。こうすれば「どこの団体が車椅子を持っているのか」とか「チェーンソーを扱えるのは誰か」というような有用な情報をみんながシェアできる。 組織されていない個人ボランティアにとって、また短期間に次々と人が入れ替わる被災地の現場にとって、これはとても大事なことだった。 「情報を集約し共有する」「すべてを明文化する」「朝に即断・即決する」「責任と指揮権を明らかにする」「主体的に動く」。 こういった僕らのスタイルはかなりうまく機能するようになり、噂を聞きつけた他の地区のボランティアや専門の活動家までがミーティングに顔を出すようになった。 ちなみに後に国会議員となり、今回の東日本大震災では災害ボランティア担当の総理大臣補佐官を務めることになった辻元清美さんはこの頃の仲間だし、現在、宮城県石巻市をベースに救援活動をしている『ピースボート』の山本隆さんはこのしくみを僕と一緒に作ったメンバーだ。