東日本大震災のボランティア志願者へのメッセージ(フィールドライフ2011年春号掲載)
阪神大震災のときに僕は単身で被災地へと向かった。
まずは僕自身が神戸で体験したことを詳しく書いておこう。 1995年1月17日早朝。マグニチュード7。3の直下型地震が兵庫県南部と淡路島を襲い、神戸一帯に甚大な被害をもたらした。いわゆる『阪神大震災』である。 当時の僕は東京に住んでいたので、その揺れを直接感じることはなかったが、17日の午後になると被災地の様子が東京のテレビ局でも中継されるようになり、今回と同じように僕の目はそれに釘付けになった。 ブラウン管の中で(そう。当時のテレビはまだブラウン管だった)、コンクリートのビルがぺっしゃんこに潰れ、阪神高速道路が倒壊した。それはまるでゴジラに踏みつぶされたジオラマの街のようで、にわかには信じがたい光景だった。 やがて神戸の西にある長田区という下町から火の手が上がった。長田には木造家屋や長屋が多く、家々は紙くずのようにメラメラと炎に包まれた。すぐに消防隊が駆けつけたが、上水道が分断され消火栓の水が出ない。水の出ないホースを持って炎の前で立ち尽くす消防隊員の姿が大きく映し出された。それは胸を掻きむしられるような悲痛な映像だった。 やがて炎は火災旋風を熾し、長田一帯を火の海に変えた。火災は須磨区や兵庫区にまで燃え広がり、6000軒以上の家を焼きつくした。真っ赤に燃える大地の向こうから、怖ろしいほど大きな満月が登ってくるのを、テレビの生中継で見たひとも多いはずだ。 死者の数は日を追うごとに増し、避難所には被災者が溢れた。ピーク時の避難者数は31万人。全国から救援物資が送り込まれたが、それを仕分けたり分配する人手が足りず、物資が行き渡らない。テレビはヒステリックに危機を叫び、被災地の窮状を訴えていた。それを見て、僕は居ても立ってもいられなくなったんだ。 そう。今のキミと同じようにね。 この時、僕は31歳だった。若く、健康で、エネルギーをもてあましていた。また当時は『パリ~ダカールラリー』というサバイバルレースの選手をしていて、そういう危機的状況を乗り切るためのスキルや経験をたくさん持っていた。というか、持っていると思い込んでいた。 地震発生から10日目の朝、テレビの前に座っていることに耐えきれなくなった僕は、ラリー用の大型オフロードバイクに一週間分の水と食糧とガソリン、そしてキャンプ道具一式を積み込んで単身で神戸へ向かった。道路は寸断されていたが、バイクだったので問題ない。僕は当時最も救援が遅れていると言われていた長田区へと入っていった。 そして僕は、愕然とした。 そこに広がっているのは、テレビで見た光景の何十倍もむごたらしい現実だ。家々は空爆されたように潰れ、焼け野原には焦げ臭い臭いが充満していた。長田消防署に隣接する工業高校は遺体の仮安置所になっていて、瓦礫の下から発見されたばかりの遺体が次々と担ぎ込まれていた。 まさに阿鼻叫喚。 そこらじゅうに“死”の臭いが漂っていた。それが焼け落ちたケミカル工場の臭いと混ざり、猛烈な勢いで鼻孔に流れ込んできた。僕はヘルメットを脱いだとたん、自分のブーツの上に吐いてしまった。テレビは流血を映さない。テレビは死臭を届けない。それは僕が生まれて初めて見る“地獄”だった。 ショック状態のまま、僕は長田区役所を訪ねた。区役所へ行けば「ボランティア受付」のようなものがあるかと思っていたのだ。 だが実際にはそんなものはなかった。区の職員も、災害対策本部の人たちもいまだに混乱していた。彼らもまた焼け出され、命からがら逃げてきた人なのだ。庁舎は避難所に入りきれない被災者で溢れ、疲れと焦りで、みな殺気立っていた。 とりあえず社会福祉課の職員さんを見つけ出し、ボランティアに来た、しばらくは滞在できるので何か手伝わせてくれと告げた。すると職員さんは「じゃあ、ボランティアのとりまとめをしてほしい」といった。 来てくれたのはありがたいし、人手は喉から手が出るほど欲しいが、受付をしたり、指示を出したり、仕事を振り分けたりする余裕が今はない。部屋を提供するので、できれば自分たちで自主的に動いて欲しい。それが区からのお願いだった。 わけもわからないまま、僕は首を縦に振った。 この日、長田区役所には僕の他に7人のボランティア志願者が来ていた。地元神戸から2人、大阪や長野から5人。しかし僕を含め、誰ひとりとしてボランティア活動の経験など持っていなかった。