まずはお互いを知る機会を――インクルーシブ教育を目指す、障害当事者たちの声 #令和の人権
30歳前後の時期に頭に浮かび始めたその考えは、新たに自立生活を始めようとする、脳性麻痺のある障害当事者と接することで確信めいたものに変わっていく。「彼らの多くは分離教育で育っているんですが、自分と同じように介助者とのコミュニケーションで悩んでいるケースが多いことがわかった。もちろん個人の性格による部分もゼロではないと思います。でも、健常児と分けられたことが影響していることは間違いない」 数矢さんは2月中旬から、1970年代にインクルーシブ教育に舵を切ったイタリアを2週間視察する。かつて日本と同じ分離教育を行っていたイタリアの教室は、今どのような雰囲気になっているのか。「僕自身の小中学校時代と比較することで、何かヒントがつかめると思っています」
「多くの障害者は、学校時代にあまりいい思い出がない」
奇しくも、数矢さんが視察に訪れるイタリアで障害児だけが通う学校が閉鎖されていった時期は、日本が障害のある子とない子を分ける流れを強めた時期でもある。その流れを決定づけたのが、1979年4月の「養護学校義務化」だった。 戦後しばらく、重度の知的障害者や身体障害者たちの多くは、「就学免除」や「就学猶予」の名の下、教育の現場から排除された。養護学校義務化は、一見、こうした子どもたちに学びの場を与える施策のようにも見える。しかし、障害当事者たちは「障害者を健常者たちと分離するのは社会からの排除で差別だ」と反対の声を上げ、実施直前の同年1月には当時の文部省前で座り込み闘争を行った。その時の様子を撮影したドキュメンタリー映画『養護学校はあかんねん!』の中で、脳性麻痺の女性が次のようなことを語る。 「障害児教育とかいろいろ言われてますけど、じゃあ、教育とは何かと聞きたい。私は、教育とは、人間が人間として、みんなと共に生きぬく(ことだ)と教える場だと思います」 教育は当時から、「共に生きる社会」を築く上で避けられないテーマだった。しかし、その後、教育は障害者運動の最前線になかなか出てこなくなった。数矢さんを活動に誘った先輩で、生まれつき脳性麻痺がある鍛治克哉さん(40)はその理由を次のように語る。 「教育の問題をやろうとすると、おのずと学校時代を振り返ることになる。でも、多くの障害者は、学校時代にあまりいい思い出がない。だからあまりやりたがらなかったんです」