「零式」「九九式」「九七式」真珠湾トリオで最古参なのは?昭和12年制式の九七艦攻が一番ベテランではない理由
(歴史ライター:西股 総生) ■ 当時の最新鋭機トリオ 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾奇襲攻撃の際、日本海軍の攻撃隊が使用した機体は、零式艦上戦闘機・九九式艦上爆撃機・九七式艦上攻撃機のトリオである。このうち、九九艦爆は急降下爆撃、九七艦攻は水平爆撃と雷撃(魚雷攻撃)を担った。 【写真】九七式艦上攻撃機 では、このトリオのなかで一番のベテランはどれか? 「零式」「九九式」「九七式」の呼称は、機体が制式化された年式を皇紀の末尾2桁で表したものだ。であるなら、昭和12(1938)年制式の九七艦攻が最古参となりそうだが、実はそうはならない。なぜなのだろうか? 軍用機を開発する場合、軍はいくつかのメーカーに必要なスペックを示して競作させ、できあがった試作機を審査して、もっとも満足のゆく性能を示した機体を採用する。要するに設計コンペだ。ただし実際は、もっとも高性能な試作機を採用すればよい、というほど単純ではない。 戦闘機や攻撃機のような第一線で使用する軍用機には、その時代時代で考えられるかぎり最高の性能が求められるからだ。当然、試作機には最新の理論や技術が盛り込まれ、しばしば野心的・冒険的な設計になる。 結果として実機ができあがってみると、カタログデータ通りのスペックが発揮できなかったり、飛行性能はよいのだが使い勝手が悪い、といった不具合が出てくる場合もある。軍用機は過酷な環境で酷使されるものだから、いくら高性能でも整備や修理が難しい機体や、故障しやすい機体では、戦力にならないのだ。 そこで、本命を主力機として採用する一方で、対抗の試作機も併行して採用することがある。つまりは、保険をかけるわけだ。 九七艦攻の場合、本命として採用されたのは中島飛行機(現在の富士重工)の機体で、これを九七式一号艦攻として制式化した。一方、中島機にくらべてよくいえば手堅い、厳しくいうなら守旧的な設計だった三菱重工の機体を、九七式二号艦攻とした。 結局、中島製の一号艦攻が大当たりとなって、空母艦載機の主力を担うこととなった。性能がイマイチの三菱製二号艦攻は、少数のみが生産されて、陸上基地で偵察機などとして使われて終わった。 こうなると、中島製の一号艦攻をバージョンアップしよう、という話が出てくる。その結果として作られた性能向上型が、九七式三号艦攻として採用された。 日米関係がキナ臭さを増してくる中で、九七式三号艦攻は零戦二一型とともに急ピッチで量産が進められ、一号艦攻に取って代わっていった。日本が対米英開戦を昭和16年12月上旬というタイミングに設定した背景には、それまでなら何とか、主力空母6隻の艦上に九七式三号艦攻と零戦二一型が揃いそうだ、という見通しがあったのだ。 実際には、一部の三号艦攻は錆止めの下塗りだけ済ませた状態で空母に納入され、仕上げ塗装は艦内で行ったという。前稿で書いた魚雷改造の件といい、相当なバタバタぶりだったことがわかる。 したがって、真珠湾トリオの最古参は九九艦爆、が正解となる。とはいえ、年式は零戦と1年しか違わないのだから、充分に最新鋭機だ。真珠湾作戦は、当時の最新鋭機トリオによって実施されたわけである。
西股 総生